天台宗の「東叡山寛永寺末」である「泰叡山瀧泉寺」、通称「目黒不動尊」は、慈覚大師が808(大同3)年に開創したといわれる。江戸時代には広く信仰を集め、また江戸近郊の行楽地として門前町は大いに賑わいを見せた。「行人坂」から門前までの道筋には茶店や土産物店が並び、不動尊へ曲がる角にあった「角伊勢(かどいせ)」や「大国屋」は、栗飯や筍飯で名を売り明治時代以降も繁盛していたという。また、1812(文化9)年に許可された富くじ興行の開催日には大勢の人がつめかけ、「湯島天神」や谷中の「感応寺」(現「天王寺」)とともに『江戸の三富(さんとみ)』といわれた。
江戸時代の目黒・大崎は、江戸近郊の農村であり、諸大名の下屋敷(別邸)も多く立地する風光明媚な土地であった。江戸市中の人々にとっては、「目黒不動尊」の信仰と門前の賑わいで知られた場所であり、少し足を延ばせば訪れることのできる行楽地でもあった。明治時代以降に明治政府の主導によって近代化の波が国中に広がる中、目黒一帯は官民の工場が展開する工業地域へ、さらに戦後は、都心近接の住宅・商業エリアへと姿を変えた。