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『目黒筋御場絵図』に見る江戸時代の目黒・大崎



大名の別邸が立ち並んだ風光明媚な地、目黒・大崎

『目黒筋御場絵図』

『目黒筋御場絵図』【図は1805(文化2)年】

図は1805(文化2)年に江戸幕府によって作成された『目黒筋御場絵図(めぐろすじごじょうえず)』の一部で、描かれている各施設・地名をわかりやすく加工している。

この絵図は、「目黒筋」と呼ばれた御鷹場を示したもの。御鷹場とは、将軍家が鷹狩りを行う場所のことをいい、当時農村であった目黒・大崎エリアは、馬込、世田谷、麻布、品川一帯とともに「目黒筋」に設定されていた。絵図内には村名のほか、街道、御膳所、寺社、大名屋敷等も記されている。御膳所とは将軍が鷹狩りの際に昼食をとったりする休息所のこと。このエリアでは「瀧泉寺(目黒不動尊)」と右下の「東海寺」が御膳所として描かれている。

絵図中央左に描かれている「瀧泉寺」に向けて東(右)側から延びる参道は他より太く描かれており、当時この地域において重要な道で、門前町として賑わいを見せていた様子が見てとれる。また、この頃には「権之助坂」も開かれている。「大鳥社」は現在の「大鳥神社」で、「行人坂」下の「明王院」の地は現在の「目黒雅叙園」の一部にあたる。さらに、『目黒のさんま』の舞台でもある「茶屋坂」も描かれている。現在の大崎エリアでは、「御殿山」に桜が描かれており、当時は桜の名所として知られていた様子がわかる。海沿いには「八山」の文字もあり、『城南五山』のうち「八ツ山」と「御殿山」は、江戸時代からの地名であることが読みとれる。この頃の「目黒川」は蛇行しており、河口付近は大きく曲がり「北品川宿」付近まで北に流れていたこともわかる。「目黒川」は大正~昭和期に改修されてほぼ真っすぐとなった。

「目黒川」より東(上)側の高台上には大名屋敷が多く存在している。「目黒川」沿いに描かれた主な大名屋敷は以下の通り。

絵図内表記 所有大名家 現  在 備  考
松平讃岐守 高松藩松平家 「国立科学博物館附属自然教育園」など
松平主殿頭
(とのものかみ)
島原藩松平家 品川区上大崎三丁目付近、目黒区目黒一丁目付近 江戸時代は「千代ヶ崎」とも呼ばれた一帯。
森河内守 三日月藩森家 「花房山」と呼ばれる高級住宅街 品川区域の中で唯一の上屋敷。
松平薩摩守 薩摩藩島津家 「目黒雅叙園」 江戸期に熊本藩細川家→盛岡藩南部家へと所有が移る。
柳生但馬守 柳生藩柳生家 品川区西五反田三丁目3から5番付近
松平上総守 岡山藩池田家 品川区東五反田五丁目付近、一帯は「池田山」と呼ばれる。 明治期も「池田侯爵邸」として使用された。
松平政千代 仙台藩伊達家 「清泉女子大学」 明治期からは島津家が所有し、一帯は「島津山」と呼ばれる。
松平出羽守 松江藩松平家 品川区北品川五丁目付近 屋敷は「大崎園」とも呼ばれたが、のちに鳥取藩池田家の所有となる。「松平出羽守」は落語『目黒のさんま』に登場する殿様といわれる。

大名屋敷の多くは、明治期になると華族・実業家などの邸宅や、政府の施設ができるなどして、その姿を変えていった。現在、かつての屋敷地周辺の多くは高級住宅地となっており、江戸時代から続く格式や景勝地であった風情を感じることができる。




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