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丸の内の『一丁紐育』

1914(大正3)年に「東京駅」が開業すると、丸の内の北側もオフィス街として発展。大正期から昭和戦前期にかけて、近代的なビルが建設され、「行幸道路」(現「行幸通り」)一帯は『一丁紐育(いっちょうニューヨーク)』とも呼ばれるようになった。「関東大震災」の後は、震災復興事業により街路、橋梁、公園などの整備が進められた。大手町では「大蔵省」、「印刷局」などの敷地一帯で区画整理が行われたほか、町名町界地番の整理も行われ、1929(昭和4)年に現在の大手町一丁目・二丁目、丸ノ内一丁目~三丁目(1970(昭和45)年から丸の内)が誕生した。


1917(大正6)年に竣工した「東京海上ビルディング」 MAP __

本社を「三菱二号館」に置いていた「東京海上保険」と「明治火災保険」は、1915(大正4)年より人事交流と資本合流を進めていた。1917(大正6)年、現在の丸の内一丁目に「東京海上ビルディング」が竣工となり、「東京海上」と「明治火災」は「三菱二号館」から移転した。「東京海上」は1918(大正7)年に「東京海上火災」に改称、「明治火災」は1941(昭和16)年に「明治火災海上」へ改称。その後、1944(昭和19)年、戦時統制により「東京海上火災」へ統合された。写真は大正後期撮影の「東京海上ビルディング」で、左奥には「東京銀行集会所」(1916(大正5)年竣工)、右奥には小さく「東京駅」が見える。のちの「行幸道路」はまだ全通していない。隣接地には、「新館」が1926(大正15)年に着工、1930(昭和5)年に竣工となっている。「太平洋戦争」の終戦後、「旧館」「新館」とも「GHQ」が接収、1956(昭和31)年に接収解除となった。【画像は大正後期】

「旧館」の跡地には、1974(昭和49)年に「東京海上ビルディング 本館」(現「東京海上日動ビルディング 本館」)が竣工となった(設計は前川國男、写真中央の煉瓦色のビル)。1986(昭和61)年には、旧「新館」跡地に「東京海上ビルディング 新館」(本館の左隣、現「東京海上日動ビルディング 新館」)が竣工した。写真は2020(令和2)年の撮影。「東京海上日動ビルディング 本館」及び「新館」は、老朽化のため一体で建替えられることになり、2022(令和4)年より解体工事が進められている。新ビルは2028年度の竣工予定。

昭和戦前期における国内最大のビル「丸ノ内ビルヂング」 MAP __

「丸ノ内ビルヂング」(一般に「丸ビル」と呼ばれた)は、「三菱合資会社」(現「三菱地所」)が「東京駅」の「丸の内駅舎」前に建設、1923(大正12)年に竣工したオフィスビルで、低層階には商業施設が設けられた。同年、「関東大震災」で被災し、翌年にかけて復旧補強工事が行われた。昭和戦前期における国内最大のビルで、「東洋一のビル」と呼ばれた。写真は昭和戦前期の撮影。【画像は昭和戦前期】

「丸ビル」は1999(平成11)年に解体、跡地に高さ約179mの「丸の内ビルディング」が建設され、2002(平成14)年に竣工、丸の内の再開発・超高層化の先駆けとなった。

「行幸道路」と『一丁紐育』

「東京駅」の開業当初、「丸の内駅舎」の中央には「皇室口」が設けられ、ここから「皇居」に向かって幅員が約73mもある道路が建設されたが、この道路は「内濠」までで、「皇居外苑」へ渡る橋はなかった。この道路は、「関東大震災」後、震災復興事業の中で「皇居外苑」まで延伸、街路樹・街灯なども整備され、1926(大正15)年に「行幸道路」(当時、一般には「千代田通り」と呼ばれた)として全通した。この一帯は、大正期から昭和初期にかけて、「東京海上ビルディング」「丸ビル」など、アメリカ式のビルが建ち並んだため、明治期の『一丁倫敦』の街並みに対して『一丁紐育』と呼ばれるようになった。写真は「行幸道路」全通後、昭和戦前期の撮影。【画像は昭和戦前期】

「行幸道路」は、現在は「行幸通り」と呼ばれる。「丸ビル」をはじめ、オフィスビルは高層化・超高層化されている。写真は2020(令和2)年の撮影。
MAP __(撮影地点)

写真は昭和戦前期の「行幸道路」で、「皇居」側から「東京駅」(中央奥)を望んでいる。沿道は『一丁紐育』と呼ばれたビル群で、左手前のビルが「東京海上ビルディング 旧館」、右手前が「郵船ビルディング」、右奥が「丸ビル」。「郵船ビルディング」は「日本郵船」の新社屋として、1920(大正9)年に着工、1923(大正12)年に竣工した。このビルも終戦後に「GHQ」により接収され、1956(昭和31)年に接収解除となった。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「行幸通り」。「東京海上ビルディング 旧館」は、高さ約128m・30階建ての高層ビルへ建替えるため、1966(昭和41)年に解体された。しかし、「皇居」の濠端での高層ビルの建設は、美観を損ねること、また「皇居」を上から覗けるようになることも問題視され、政財界を巻き込んだ「丸の内美観論争」へと発展した。その後、高さ・階数を減らして約100m・25階建てで建設されることになり、1970(昭和45)年に着工、1974(昭和49)年に「東京海上ビルディング 本館」(写真左の煉瓦色のビル)が竣工となった。

「東京海上ビルディング 旧館」の建替え以降、丸の内・大手町の濠端に面する高層ビルは、不文律として高さ約100m以下で建設されていった。「東京海上ビルディング 本館」の向かいの「郵船ビルディング」は1976(昭和51)年に解体、二代目の「郵船ビルディング」(高さ約70m)が建設され、1978(昭和53)年に竣工している。

この一帯では、長年、ビルの高さは約100m以下に抑えられてきたが、高さ約179mの「丸の内ビルディング」の建設(2002(平成14)年竣工)をきっかけに、超高層ビルの建設が進んでいる。
MAP __(撮影地点)


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