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丸の内の『一丁倫敦』

「明治維新」以降、陸軍の諸施設は「皇居」の東側に置かれ、その護りを固めていた。その後、国内の混乱も収まり、広大な用地を求め郊外への移転が始まった。1874(明治7)年に編成され、呉服橋に置かれていた「歩兵第三聯隊」は、1889(明治22)年に麻布区竜土町(現・港区六本木七丁目)へ移転するが、その兵舎の建築費用を捻出するため、丸の内の陸軍用地を民間に払い下げることを決定、しかし入札は不落に終わり、結局、岩崎彌之助が率いる「三菱社」が引き受けることになった。1890(明治23)年、「三菱社」は丸の内一帯の土地、約10万4千坪の払い下げを受け、敷地内の建物を取り壊し、広大な空地としたことから、「三菱ヶ原」と呼ばれた。「三菱社」は、「三菱ヶ原」に大オフィス街の建設を計画。ロンドンの金融街「シティ」の一角の、「ロンバード・ストリート」が参考にされ、完成後、その街並みは『一丁倫敦(いっちょうロンドン)』とも呼ばれた。


丸の内の最初のオフィスビル「第一号館」 MAP __

「三菱社」(1893(明治26)年から「三菱合資会社」)は、1892(明治25)年1月、丸の内の最初のオフィスビル「第一号館」を着工、1894(明治27)年に竣工した。西洋風の外観を持つ赤煉瓦造りで、設計はジョサイア・コンドル。写真は1911(明治44)年頃の撮影で、中央が「第一号館」。その右にはまだ空地の「三菱ヶ原」が見える。【画像は1911(明治44)年頃】

「第一号館」は1968(昭和43)年に解体され、跡地には「三菱商事ビルヂング」が1971(昭和46)年に竣工した。2007(平成19)年より、「三菱商事ビルヂング」を含む街区の再開発が行われ、「丸の内パークビルディング」が2009(平成21)年に竣工、この時「第一号館」が「三菱一号館」として復元され、翌年「三菱一号館美術館」が開館した。

『一丁倫敦』の街並み

「第一号館」から「皇居」方面へ向かう「馬場先通り」沿いの200mほどの区間に、次々に赤煉瓦造りで統一された洋風オフィスビルが造られていった。その整然とした美しい景観は、ロンドンの街並みにたとえられ、『一丁倫敦』と呼ばれるようになった。写真は明治後期~大正前期の撮影で「皇居」方面を望んでいる。右の建物は手前より「第一号館」「第四号館」「第五号館」「第二号館」、左の建物は手前より「第三号館」「第十二号館」「第十三号館」「東京商業会議所」。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

写真は「東京国際フォーラム西交差点」付近。右が「三菱一号館」。

写真は明治後期~大正前期、「皇居」側からの『一丁倫敦』で、左はジョサイア・コンドル設計の「第二号館」、右は「東京商業会議所」。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

写真は「馬場先門交差点」の西側からの撮影。左の建物は「第二号館」を建替えた「明治生命館」。

「第二号館」から「明治生命館」へ MAP __

「三菱社」は1892(明治25)年1月の「第一号館」の着工に続き、同年12月には「第二号館」の建設にも着手、1895(明治28)年に竣工。ここに「東京海上保険」「明治生命保険」「明治火災保険」の保険業三社の本社が移転してきた。「東京海上」は1879(明治12)年、日本初の海上保険会社として、「明治生命」は1881(明治14)年、日本初の生命保険会社として、「明治火災」は1891(明治24)年、日本で最初期の火災保険会社として設立されていた。【画像は明治後期】

「明治生命」は「第二号館」として建設された建物(1915(大正4)年に買収)を本社として使用していたが、業務の拡大により手狭になったため建替えることとなり、1930(昭和5)年に解体。跡地に「明治生命館」が建設され、1934(昭和9)年に竣工となった。終戦後は「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」が接収、「アメリカ極東空軍司令部」として使用されたのち、1956(昭和31)年に返還された。写真は「GHQ」に接収されていた1946(昭和21)年頃の撮影。【画像は1946(昭和21)年頃】

1997(平成9)年、昭和期の建造物としては初めて国の重要文化財に指定。2004(平成16)年に隣接地に30階建ての「明治安田生命ビル」が竣工し、「明治生命館」は全面保存の上、一体的に利用されている。

明治期から丸の内にある「東京商工会議所」 MAP __

東京の商工業発展のため、1878(明治11)年、渋沢栄一らにより国内初の商法会議所「東京商法会議所」が京橋区木挽町十丁目(現・中央区銀座六丁目)に設立され、その後、移転及び1891(明治24)年の「東京商業会議所」への改称を経て、1899(明治32)年、現在地(現・千代田区丸の内三丁目)に「東京商業会議所ビル」が完成した。塔のあるルネサンス式の赤煉瓦のビルで、設計は妻木頼黄。「関東大震災」でも損傷はなかったが、1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の空襲で焼夷弾の直撃を受け、内部は全焼した。名称は、1928(昭和3)年に「東京商工会議所」へ改称されている。【画像は明治後期】

赤煉瓦の「東京商工会議所ビル」は1960(昭和35)年に8階建てのビルに建替えられていたが、さらに、2015(平成27)年より隣接する「富士ビルヂング」「東京會舘」と一括で建替えが進められ、2018(平成30)年に「丸の内二重橋ビル」(写真)が竣工した。


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