『鎌倉名所記』
「鎌倉幕府」に続く武家政権となった「室町幕府」において、鎌倉には東国支配のために「鎌倉府」が置かれた。しかし、やがて「鎌倉府」の長官である「鎌倉公方」と補佐役の「関東管領」である上杉氏が対立し弱体化、鎌倉は東国の中心的地位を失い衰退していった。
戦乱の中で活気をなくしていた鎌倉であったが、江戸時代に入り転機が訪れる。徳川家康をはじめとする徳川将軍家は武家政権発祥の地として鎌倉を重視し、「鶴岡八幡宮」の造替や「建長寺」の復興に援助するなど、社寺の復興・保護に力を注いだ。
江戸中期になると、鎌倉は江戸の町人の間で観光地として人気となった。観光の定番のルートは、江戸から「東海道」を通り、景勝地の「金沢八景」を経由し鎌倉の社寺や史跡を廻ったのち、七里ガ浜を抜けて「江の島」へ向かうというものだった。
江戸時代には鎌倉に関する本が多く出版された。江戸前期に記された代表的なものに、沢庵宗彭(たくあんそうほう)による紀行文『沢庵和尚鎌倉巡礼記』(1633(寛永10)年)、徳川光圀が1674(延宝2)年、鎌倉へ地誌の調査に訪れたときの紀行文『鎌倉日記』及び地誌『新編鎌倉志』(1685(貞享2)年刊行)などがある。江戸中期には、名所巡りの旅行者が携帯するための案内書『鎌倉名所記』や、当時の観光マップである『鎌倉絵図』なども出版された。このように、鎌倉に関する紀行本・地誌・案内書・絵図が多数出版されたこともあり、江戸中期以降、江戸からの観光客が増え、鎌倉の古都としての観光地化が進んでいった。