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江戸時代に観光地化した「武家の都」

宗教政策により支配の強化を目指した「鎌倉幕府」の統治下では、さまざまな社寺の再建や建立が進められた。江戸時代に「観音巡礼」や「大山詣」が流行すると、これらの社寺に多くの参拝客が訪れるようになり、『鎌倉名所記』などの案内書や紀行文も出版され、庶民の遊山(以下、観光と表記)が一層活発になっていった。


鎌倉時代に建立された「高徳院」の大仏 MAP __

長谷にある「高徳院」の大仏(阿弥陀如来坐像)は、像高約11.3m、重量約121tの銅造。1252(建長4)年に僧の浄光の勧進により、造立が開始されたとされるが、詳細は不明。当初は金箔に覆われ大仏殿に安置されていたが、天災により倒壊したといわれている。露坐となり荒廃が進んだが、江戸中期に祐天上人が修復し、浄土宗の寺院「高徳院」として復興した。【画像は明治後期】

現在は鎌倉を代表する観光名所となっており、仏像としては鎌倉市内唯一の国宝に指定されている。

「坂東三十三観音霊場」の第一番札所「杉本寺」 MAP __

茅葺の本堂を持つ「杉本寺」は、734(天平6)年、光明皇后の開基、行基の開山で創建された、鎌倉で最も古い寺院。行基、円仁、源信作とされる3体の「十一面観音」が本尊で、鎌倉時代の大火の際に、自ら杉の大木の下に避難したため「杉の本の観音」と呼ばれるようになったとされている。鎌倉時代に始まり江戸時代に流行した「坂東三十三観音霊場」の第一番札所となっている。写真は1958(昭和33)年の仁王門へ続く石段。【画像は1958(昭和33)年】

境内は、現在も変わらぬ雰囲気。石段を上り仁王門を抜けると美しい苔の階段があるが、現在は保護と安全のため通行禁止となっている。

観光客で賑わう「長谷寺」の門前 MAP __

写真は明治後期の「長谷寺」門前。奥に「長谷寺」の山門が見える。江戸時代になり観音信仰が盛んになるにつれて、「長谷寺」の門前には参詣客のための旅館、茶屋などが並ぶようになった。明治時代以降は、別荘地としての人気が高まり、1907(明治40)年には南側に江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)が延伸開通、「長谷駅」が開設され、観光地としてさらに発展した。【画像は明治後期】

道の両側に商店や旅館の建物が並ぶ現在の「長谷寺」門前。落ち着きのある参道の景観が形成され、現在も観光地として賑わっている。


江戸時代に観光地化した「武家の都」

『鎌倉名所記』

『鎌倉名所記』

「鎌倉幕府」に続く武家政権となった「室町幕府」において、鎌倉には東国支配のために「鎌倉府」が置かれた。しかし、やがて「鎌倉府」の長官である「鎌倉公方」と補佐役の「関東管領」である上杉氏が対立し弱体化、鎌倉は東国の中心的地位を失い衰退していった。

戦乱の中で活気をなくしていた鎌倉であったが、江戸時代に入り転機が訪れる。徳川家康をはじめとする徳川将軍家は武家政権発祥の地として鎌倉を重視し、「鶴岡八幡宮」の造替や「建長寺」の復興に援助するなど、社寺の復興・保護に力を注いだ。

江戸中期になると、鎌倉は江戸の町人の間で観光地として人気となった。観光の定番のルートは、江戸から「東海道」を通り、景勝地の「金沢八景」を経由し鎌倉の社寺や史跡を廻ったのち、七里ガ浜を抜けて「江の島」へ向かうというものだった。

江戸時代には鎌倉に関する本が多く出版された。江戸前期に記された代表的なものに、沢庵宗彭(たくあんそうほう)による紀行文『沢庵和尚鎌倉巡礼記』(1633(寛永10)年)、徳川光圀が1674(延宝2)年、鎌倉へ地誌の調査に訪れたときの紀行文『鎌倉日記』及び地誌『新編鎌倉志』(1685(貞享2)年刊行)などがある。江戸中期には、名所巡りの旅行者が携帯するための案内書『鎌倉名所記』や、当時の観光マップである『鎌倉絵図』なども出版された。このように、鎌倉に関する紀行本・地誌・案内書・絵図が多数出版されたこともあり、江戸中期以降、江戸からの観光客が増え、鎌倉の古都としての観光地化が進んでいった。



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