写真は「目白文化村」。【画像は大正末期~昭和初期】
若き芸術家が数多く暮らしていた池袋周辺は、一方で華族や富豪が邸宅を構えた場所でもあった。江戸時代に徳川家の御鷹場であった「御留山」は、明治期に入り近衛家の所有となったが、大正初期に西側一帯を相馬家が取得し住まいとした。1915(大正4)年にできた「相馬邸」の庭園は現在の「おとめ山公園」の原型ともなっている。
落合一帯は、明治期に入ってもなお、豊かな自然に囲まれた閑静な地であったことから、大正期から昭和前期にかけて、都心の喧騒を逃れて創作環境を求めた多くの文化人たちが暮らすようになった。
作家の林芙美子は、1930(昭和5)年に落合に移り住み、1939(昭和14)年に土地を購入、新居を構えた。現在は「新宿区立林芙美子記念館」として公開されている。一帯にはそのほか、武者小路実篤や壺井栄などが住んだことから、のちに「落合文士村」とも呼ばれるようになった。また、「箱根土地」が開発した「目白文化村」にも、学者や文化人が数多く移り住んだ。 MAP __(新宿区立林芙美子記念館)
歌人の柳原白蓮は、社会運動家の宮崎龍介と結婚後、西池袋に暮らしていた。龍介の父である宮崎滔天(みやざきとうてん)は、革命家の孫文と親友で、彼の活動を助けていたことで知られている。そのため、亡命中の孫文はこの宮崎邸に滞在していたという。