かつては武蔵野の原野が広がり、わずかに雑司ヶ谷の「鬼子母神」などが賑わいを見せていた現在の池袋界隈。明治後期に日本鉄道の「池袋駅」が開業、大正期には東上鉄道、武蔵野鉄道も乗り入れるようになり、交通の要衝に。「豊島師範学校」の開校、「学習院」「立教」といった学校が移転してきたこともあり、一帯は文教の地ともなった。「関東大震災」前後からの東京西郊の住宅地化に伴い、乗り換え駅としてさらに発展。「太平洋戦争」で、池袋一帯は甚大な被害を受けたが、「池袋駅」駅前に巨大な「マーケット」が立ち上がり、戦後復興の原動力ともなった。高度経済成長期を迎え開発や区画整理が進み、現在では新宿・渋谷などと並ぶ「副都心」の一つへ成長した。
武蔵野の自然に恵まれた地
「神田川」が流れる落合は、蛍狩りの名所 MAP __
将軍の「御鷹場」の一つだった「御留山」
鷹狩とは、鷹を使って鳥類や動物を獲る狩りの方法。古くは天皇・貴族などの娯楽であったが、中世以降は、多くの武将が嗜みとして行い、鷹は献上品としても喜ばれた。徳川家康も鷹狩を好んだことで知られ、江戸入府以降は江戸近郊へ出向き鷹狩を楽しんでいる。将軍が鷹狩を行う場所は「御鷹場(おたかば)」「御拳場(おこぶしば)」などと呼ばれた。
二代将軍・秀忠以降も鷹狩を行い「御鷹場」の整備も進められたが、五代将軍・綱吉の時、「生類憐みの令」に伴い鷹狩が禁止された。その後、八代将軍・吉宗が鷹狩を復活させ、江戸近郊の「御鷹場」は「葛西筋」「岩淵筋」「戸田筋」「中野筋」「目黒筋」「品川筋」の六筋へ再編され、幕末まで続いた。図は江戸近郊の「御鷹場」の池袋付近を抜粋・加工したもの。現在の豊島区域は概ね「戸田筋」に属していたが、駒込村は「岩淵筋」、下高田村は、下落合村(現・新宿区)などとともに「中野筋」に属していた。【図は江戸後期】
幕府は山林の保護や将軍の鷹狩に備えて禁猟とするのために一般人の立ち入りを禁止した場所を「御留山(おとめやま)」と呼んだ。下落合村の崖線は将軍の「御鷹場」とするため「御留山」とされた。浮世絵は江戸末期、歌川広重が描いた『冨士三十六景』より『雑司かや不二見茶や』。雑司ヶ谷村にあった「富士見茶屋」から「富士山」方面を望んでおり、右に見える山が下落合村の「御留山」となる。「富士見茶屋」の跡地は現「学習院大学」キャンパス内の「富士見会館」の南側付近で、江戸後期に「富士見茶屋」のそばに建てられた松尾芭蕉の句碑が残るほか、「富士見茶屋跡」の説明版も建てられている。
MAP __(富士見茶屋跡)【図は江戸後期】
1969(昭和44)年、かつて「御留山」と呼ばれた場所の一画に「おとめ山公園」が開園した。写真は現在の「おとめ山公園」。1973(昭和48)年、「落合ほたる」の復活を目指し、園内でホタルの養殖が試みられ成功、その後も飼育が続けられており、現在は毎年「ホタル鑑賞会の夕べ」も行われている。「おとめ山公園」では、2009(平成21)年度より拡張の計画・整備が進められ、2014(平成26)年に全面開園、新宿区立としては2番目の大きさを誇る公園となった。
MAP __(おとめ山公園)