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舟運と塩の町・行徳

江戸開府の頃、徳川家康は行徳を江戸に近い製塩地として重要視した。行徳は幕府の直轄地(天領)とされ、江戸と行徳を結ぶための運河「小名木川」「新川」も開削された。その後、「江戸川」の開削、「利根川」の東遷が完成すると、「小名木川」「新川」「江戸川」「利根川」を通じて江戸と北関東・東北方面が結ばれるようになり、その中継地に位置する行徳は物流の拠点としても発展した。さらに、江戸中期以降「成田山詣」が流行するとその参詣客の往来も加わり一層の賑わいを見せた。


「行徳の塩」の歴史

行徳における製塩は遅くとも戦国時代までには始まっていたといわれ、「国府台合戦」後は、領主となった北条氏へ塩が年貢として納められていたという。江戸時代には「行徳塩田」の開発・保護が行われ、関東を代表する製塩地となった。江戸中期の1769(明和6)年に記された『塩浜由緒書』には、江戸入府後の家康が東金へ鷹狩へ向かう途中、行徳において塩焼きの様子を見かけた際『塩之儀御軍用第一御領地隋一宝(塩は軍用の第一、御領地で隋一の宝)』として報奨金を与えたという記述があり、家康は江戸開府前から「行徳の塩」を重要視していたと考えられる。当時はまだ戦乱の時代であり、領内で製塩できることは軍事・防衛上、有利であった。

江戸初期、「行徳の塩」は幕府や江戸の人々の生活を支えた。江戸前期になると、海運の発達もあり、江戸の市場に「赤穂の塩」をはじめとする「十州塩」(瀬戸内産の塩)などの高品質な塩が入ってくるように。「行徳の塩」の需要は、江戸においては減っていったが、「江戸川」「利根川」の舟運網が発達したことで北関東方面などへ販路を拡げていった。「行徳の塩」の生産は明治期以降も続けられていたが、明治中期以降、安価な台湾産の流入などから徐々に減っていき、昭和前期頃に完全に終了している。図は江戸末期に出版された『江戸名所図会』の『行徳 塩竃之図(しおがまのず)』。行徳での塩焼きの風景が描かれている。【図は1836(天保7)年】

図は同じく『江戸名所図会』の『行徳汐濱(しおはま)』。【図は1836(天保7)年】

写真は有力塩問屋であった加藤家の住宅主屋。明治後期に建設されたもので、「旧行徳街道」に東面している。写真右奥に見える煉瓦塀も、同じく明治後期のもの。2010(平成22)年に「加藤家住宅主屋」として登録有形文化財となっている。
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江戸と行徳間で定期運航していた「行徳船」

徳川家康は「行徳の塩」を江戸へ輸送するために「行徳川」と呼ばれる水路を整備した。「行徳川」は「小名木川」と「船堀川」を合わせた呼び方で、「船堀川」は1629(寛永6)年に直線的に改修されると「新川」と呼ばれるようになった。「船堀川」(「新川」)から「江戸川」に入り、少し遡上した場所に「本行徳河岸」が置かれた。1632(寛永9)年、本行徳村は幕府から定期船運行の独占権を得て「行徳船」(当時は「長渡」と呼ばれた)の運航を開始した。小荷物や旅客を運ぶ、主に24人乗りの舟で、江戸・日本橋小網町三丁目の「行徳河岸」から「本行徳河岸」までの約12.6kmを毎日朝6時から夜6時まで運航し、所要時間は3~6時間、当初は16艘、最盛期の江戸末期には62艘が往来した。

また、江戸前期に「利根川東遷」と「江戸川」の開削が行われると、「小名木川」「新川」「江戸川」「利根川」を通じて江戸と北関東・東北方面が結ばれるようになり、行徳はその中継地としても発展した。銚子からの舟は「江戸川」を経由することもできたが、関宿廻りの航路は時間がかかるため、魚介については「利根川」の「木下(きおろし)河岸」から陸路の「木下道」(現「木下街道」)で運び、「本行徳河岸」から再び舟に載せ替えて江戸に運ぶことも多かった。松尾芭蕉は1687(貞享4)年の『鹿島紀行』の旅で「行徳船」と「木下道」を利用している。

江戸中期に「成田山詣」が流行すると参詣客は「成田道」(「佐倉道」)を陸路で向かったほか、「行徳船」を利用して「本行徳河岸」から「行徳道」で船橋に出て「成田道」に入る経路も人気となった。十返舎一九、渡辺崋山など著名な文人墨客も「行徳船」を利用したといわれる。図は『江戸名所図会』で描かれた『行徳船場』(「本行徳河岸」)。【図は1836(天保7)年】

現在、行徳に残る「常夜灯」は1812(文化9)年、日本橋の「成田講中」の信者により「行徳船」航路の安全祈願のために設置されたもので、現在は当初の場所からは移設されている。2009(平成21)年に周辺が「常夜灯公園」として整備された。
MAP __(常夜灯)

1877(明治10)年、「小名木川」「新川」「江戸川」「利根川」を航路として、東京・両国などから行徳・市川・松戸・「利根運河」などを経由し、北関東方面を結ぶ定期貨客船「通運丸」の運行が開始された。東京~行徳間の「行徳航路」は「行徳船」に代わるもので、1894(明治27)年からは浦安にも寄港するようになった。明治後期になると鉄道網の発展に伴い「江戸川」「利根川」の航路は衰退を見せ、昭和初期に廃止された。図は昭和初期の『汽船航路案内』の一部で右下付近に「行徳寄航場」と「浦安寄航場」が描かれている。
【図は昭和初期】

一方、東京・高橋から浦安を経由し行徳まで運航されていた「行徳航路」は、昭和戦前期にも鉄道が未開通であった行徳・浦安から1時間ほどで都心部へアクセスできる利便性もあり、通勤通学や行商、釣り客など利用客が多かったことから、経営の譲渡・統合を経て小型船(「ポンポン蒸気」と呼ばれた)で運航が続けられた。しかし競合するバスの運行開始や重油の配給制限を理由として、1941(昭和16)年に廃止、その後、浦安の経営者が復活させたが1944(昭和19)年に廃止となった。写真は「蒸気河岸」(「浦安寄航場」の通称)の跡地で、現在は釣り船の発着場となっている。
MAP __(蒸気河岸跡地)

行徳名物のうどん店だった「笹屋」 MAP __

「行徳船」の利用客で賑わった「本行徳河岸」のそばには、行徳名物のうどん店「笹屋」があり、江戸後期には十返舎一九も立ち寄っている。平安末期の「石橋山の戦い」で敗れた源頼朝は、安房国へ逃れる途中に行徳へ漂着し、提供されたうどんや酒肴で力を得たことから、源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)の紋が与えられ、屋号を「笹屋」に改称したという伝説が残る。図は「笹屋」の由来が描かれた六曲屏風。【図は江戸時代】

図は六曲屏風に描かれた「笹屋」の店舗部分。六曲屏風および図中に描かれたケヤキの大看板は「市川市立市川歴史博物館」で展示されている。「笹屋」は前掲の『江戸名所図会』の『行徳船場』でも右上に「名物ささやうんとん」(「うんとん」は「うどん」のこと)として描かれている。
MAP __(市川歴史博物館) 【画像は江戸時代】

現在「笹屋」は営業を終えているが、1854(安政元)年築の店舗だった建物が残る。


行徳の「江戸神輿」と祭り

戦国時代、土地の開墾・開発を行いつつ教化に尽力した山伏の金海法印は、『徳』が高く『行』も正しい人物で、『行徳さま』として讃えられたという。これが行徳の地名の起こりとなった。行徳には数多くの高僧が訪れ、信仰の種を蒔いてきた。そのため、町内に数多くの寺院があり、『戸数千軒、寺百軒』といわれる寺の町として発展した。

江戸時代には全国的に寺社への参詣が流行。「成田山詣」の際は「行徳船」に乗って行徳を訪れ、この先は陸路経由で「成田山」に向かう人も多かった。また「行徳街道」ができる前からある「権現道」には中世建立の寺院が多く、寺の町らしい景色が広がっている。

「行徳ふれあい伝承館」

「旧浅子神輿店店舗兼主屋」が整備され、2018(平成30)年に「行徳ふれあい伝承館」が開館した。
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3年に一度開催される「行徳五ヶ町祭り」の様子

3年に一度開催される「行徳五ヶ町祭り」の様子。

寺社が多く、江戸時代以降は「行徳船」により江戸と結ばれ交通利便性も良くなった行徳には、仏師や堂宮彫刻師、宮大工も多く集まった。明治期になると「神仏分離」「廃仏毀釈」などを背景に、行徳の仏師らは「江戸神輿」の製作も手掛けるようになり、行徳を代表する地場産業へ発展。昭和30年代には、東京の各町の戦後復興に合わせて、行徳での「江戸神輿」の製作も最盛期を迎えた。「江戸神輿」は現在まで四千基造られたといわれるが、そのうち約8割が行徳の職人らによって製作されたという。

行徳周辺では「中台製作所」が現在も「江戸神輿」などの製作と販売を一貫して行っているほか、2007(平成19)年までは「浅子神輿(あさこみこし)店」も「江戸神輿」を製作していた。 「浅子神輿店」は室町時代末期の創業といわれ、当主は代々、浅子周慶(運慶の流れを汲むともいわれる)を名乗り、仏師として仏像や神仏具を製作してきた。明治期になると「江戸神輿」の製作も手掛けるようになり、以降、都内の著名な神社の本社神輿をはじめ多数の「江戸神輿」を製作、1991(平成3)年には深川「富岡八幡宮」の『日本一の黄金大神輿』(約4.5t)も製作している。しかし、女性初の神輿師であった十六代・浅子周慶氏が2006(平成18)年に急逝、後継者がいなかったことから廃業となった。

旧「浅子神輿店」の建物は1929(昭和4)年築で、2009(平成21)年に市川市が取得、翌年「旧浅子神輿店店舗兼主屋」として国の有形登録文化財に。その後、行徳の歴史・文化を紹介する施設として整備が進められ、2018(平成30)年に「行徳ふれあい伝承館」が開館した。

行徳の「江戸神輿」は周辺地区の祭礼でも使用され、「行徳担ぎ」という独特の担ぎ方とともに地域の伝統として継承されている。


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