行徳の塩業は300年以上前から始まっていたといわれ、先の「国府台合戦」で里見氏の勢力が退いてからは、北条氏が行徳で生産された塩を年貢として取り立てていたという。江戸時代に入ると、規模はさらに拡張されていく。最大の要因は、「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」と考えた徳川家康の政策にあった。家康は行徳を幕府直属の天領として、塩業を保護・推奨したため、東国第一の「行徳塩業」としての特色を発揮するようになった。塩がきっかけとなって、船着場周辺に人の流れが生まれ、街が整備されていった。塩業や塩焼きの風景は『江戸名所図会 七巻』にも描かれている。図は『行徳 塩竃之図(しおがまのず)』。
戦国時代から盛んだった行徳の塩の生産は、江戸時代に入ると徳川家康が生産を推奨したことから一層活発化した。その後、塩を江戸へと運ぶ航路の独占権を得た本行徳村には船着場が作られ、塩はもちろん、人や物資の運搬も盛んになった。物資を運搬する「行徳船」が頻繁に行き交い、市川に人の流れが生まれた。江戸末期に「成田山詣で」が流行すると、大勢の人が集まりはじめ、宿が次々に建てられて活況を呈した。