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『軍隊の町』から文教・文化の街へ

明治初期、新政府は国府台に「国府台大学校」の開設を計画したが頓挫。予定地だった場所には「陸軍教導団」などの陸軍施設が設置され『軍隊の町』として発展した。大正期に京成電車が開通して以降(特に「関東大震災」以降)、東京から市川へ実業家をはじめ多くの人が移住してきた。こうした新しい住民の子女教育のため、国府台から八幡にかけて「国府台高等女学校」(現「国府台女子学院」)など私立学校の設立が相次ぎ、市川は文教エリアとしても知られるように。終戦後は、永井荷風氏、幸田露伴氏、水木洋子氏、東山魁夷(かいい)氏などの多くの文人・文化人も暮らすようになり、市川を題材とする作品も多く残した。また『軍隊の町』だった国府台には、戦後に大学・大学病院が進出。このような歴史を背景に、市川市は文化的な文教・住宅都市として発展していった。


戦後、陸軍用地は文教エリアへ MAP __

1875(明治8)年、新政府は高等教育機関として国府台に「国府台大学校」の開設を計画したが、当時の市川と東京の間には橋も鉄道もなく交通の便が悪かったことに加え、新政府の財政が悪化したこともあり頓挫。1885(明治18)年、大学校の予定地だった空地に「陸軍教導団」などの陸軍施設が設置された。写真は明治中期の「教導団砲兵生徒隊」。「陸軍教導団」の廃止後も「野砲兵連隊」などが駐屯し、国府台は『軍隊の町』として発展した。【画像は明治中期】

写真は明治中期の「教導団工兵生徒隊」。国府台一帯の陸軍用地は、「太平洋戦争」後も比較的戦災による被害が少なかったことから、兵舎などの跡地に大学の校舎が整備された。1946(昭和21)年には「巣鴨経済専門学校」(現「千葉商科大学」)と「和洋女子専門学校」(現「和洋女子大学」)が国府台へ移転、翌年には「東京医科歯科大学附属病院 国府台分院」が開設。軍隊の町から学園都市へと、街の様相が一変することになった。【画像は明治中期】

兵営跡地の一角に置かれた「東京医科歯科大学附属病院 国府台分院」は、1965(昭和40)年に廃止され、現在は「東京科学大学 国府台キャンパス」となっている。

私立学校の設立、文教エリアへ

京成電車沿線が住宅地として開発が進んだ大正期から昭和初期にかけて、地元有力者によって私立学校の設立が相次いだ。まず、1926(大正15)年に「国府台高等女学校」(1928(昭和3)年に「国府台学院高等女学校」へ改称、現「国府台女子学院」)が開校、1934(昭和9)年に「日出学園」、1937(昭和12)年に「市川中学校」(現「市川中学校・高等学校」)、そして1940(昭和15)年に「昭和女子商業学校」(現「昭和学院」)が誕生している。こうした学校の完成により、市川は首都圏でも屈指の文教エリアとして発展を遂げた。

写真は1928(昭和3)年の「国府台学院高等女学校」。
MAP __ 【画像は1928(昭和3)年】

「国府台学院高等女学校」があった場所は、現在は「国府台女子学院」の「小学部」の校舎となっている。

住民の娯楽であった映画

1935(昭和10)年頃の市川には、「市川橋」手前の「市川館」(1949(昭和24)年に本八幡へ移転し「本八幡ハタシネマ」に)、「三本松」正面の「三松館」(のちの「市川オークラ劇場」)、東側の新田には「市川松竹館」(のちの「市川東宝映画劇場」)の3館の映画館があった。「三松館」は戦後に「日活株式会社」と契約し「市川日活館」と改称した。写真は1952(昭和27)年の「市川日活館」。
MAP __(市川館跡地)MAP __(三松館跡地)【画像は1952(昭和27)年】

3館はそれぞれ閉館しており、当時の面影を見ることはできない。写真は「三松館」があった場所。現在は「東京ベイ信用金庫 本店」などが入るビルになっている。

写真は1941(昭和16)年の「市川松竹館」の館報。昭和初期の住民にとって映画は生活の楽しみであった。また、市川は風光明媚な土地柄で東京からも近いため、映画のロケ地としても定番だった。1925(大正14)年に封切された『異人娘と武士』は、国府台で撮影された傑作として知られている。
MAP __(市川松竹館跡地)【画像は1941(昭和16)年】


文人・芸術家が愛した市川

「大人の学び舎 大黒家」

永井荷風氏ゆかりの店「大黒屋」は、現在は「市進教育グループ」のカルチャースクール「大人の学び舎 大黒家」となっている。

市川の豊かな水と緑に恵まれた自然環境は、これまでに多くの著名な芸術家や文化人に愛され、彼らを惹きつけてきた。「市川市教育委員会」発行の『市川の文学』によると、市川に関連する作家は約120名で、近代文学に絞っても、夏目漱石氏、正岡子規氏、与謝野晶子氏、谷崎潤一郎氏など、そうそうたる面々が挙げられている。そのため、文化人が贔屓にした店やゆかりの地が市内各地に点在している。

例えば『市川が好き、市川を墳墓の地と決めた』と話すほど市川を愛した小説家・永井荷風氏ゆかりの店として知られていたのが「京成八幡駅」からも近い「大黒屋」。荷風氏は1959(昭和34)年4月29日、「大黒屋」で一級酒1本とカツ丼を食べ、帰宅後に日記を記してこの世を去ったという。2017(平成29)年に閉店したが、2019(平成31)年より「市進教育グループ」のカルチャースクール「大人の学び舎 大黒家」となっている。
MAP __(大黒家)

1935(昭和10)年の「中村味噌醸造所」

1935(昭和10)年の「中村味噌醸造所」。
【画像は1935(昭和10)年】

現在の「中村家住宅主屋」

現在の「中村家住宅主屋」。

東山魁夷(ひがしやまかいい)氏は『私の戦後の代表作はすべて市川の水で描かれています』と語った、市川を代表する日本画家。1946(昭和21)年から、市内で味噌を醸造していた「中村家」の工場の2階を間借りして生活していたことでも知られる。市川の風土、環境が多くの文人・芸術家の創作活動に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
MAP __(中村家住宅主屋)MAP __(市川市東山魁夷記念館)

こうした市川ゆかりの文学者をはじめ、映像作家、写真家など、様々な分野の作家の資料を展示・収集する拠点として、2013(平成25)年に「市川市文学ミュージアム」が開館した。
MAP __(市川市文学ミュージアム)


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