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要衝の地・戦の舞台

古代から交通の要衝として人と物が行き交う拠点であった市川。戦国時代には北条氏と里見氏を筆頭に房総の諸将が一戦を交えた「国府台合戦」の舞台にもなった。江戸時代に入ると、舟運と陸路をつなぐ場としてその役割は一層高まりを見せていく。「小岩市川の渡し」が定船場になると関所も間もなく整備され、交通の要としてますます重視されることになった。


古くからの交通の要衝

「古代東海道」は奈良時代に都と東国を結んだ重要な官道で、その宿駅「井上駅(いかみのうまや)」は「下総国府」付近に置かれていたといわれる。江戸時代になると「佐倉道」(のちの「千葉街道」)沿いには集落(図には「市川宿」とあるが正式な宿場町ではない)が栄えるが、近年ではこのあたりが「古代東海道」の「井上駅」であったと考えられている。江戸前期に「太日(ふとい)川」を前身として開削された「江戸川」には「小岩市川の渡し」が置かれ、その後「小岩市川関所」も設けられており、古代より陸運と舟運が交わる交通の要衝であったと思われる。

図は小岩側から市川方面を望む。左手前が小岩にある「小岩市川関所」、右が市川の集落。その間に「江戸川」が流れ、「小岩市川の渡し」が往来する。中央付近は「真間の入江」の低湿地(現「真間川」付近)で、現在も同地点付近にある「根本橋」が描かれている。左上には「国府台」の文字も見える。
MAP __(小岩市川関所跡)MAP __(根本橋) 【図は1836(天保7)年】

「小岩市川の渡し」には、江戸初期の1616(元和2)年に番所が設けられ、江戸前期の万治年間(1658~1661年)に「小岩市川関所」となり、江戸への人・物資の出入りや「江戸川」を航行する船を監視した。「小岩市川関所」は1869(明治2)年に廃止されており、現在は市川市側の「江戸川」の堤防上に「市川関所跡」の碑などが立てられている。実際の関所跡は小岩側にあり、「小岩市川の渡し」の市川側の乗り場もここより100mほど北になる。
MAP __(市川関所跡の碑)

多くの歌人に詠われた「真間の継橋」 MAP __

「市川砂州」の北に広がる湿地「真間の入江」には多くの洲があり、その洲から洲に板を掛け渡したものを「真間の継橋」と呼んだといわれる。奈良時代の『万葉集』で詠まれて以降、和歌の歌枕として多くの著名な歌人にも詠まれてきた。江戸時代になると紅葉などの名所としても賑わうようになった。

図は明治前期に画家・小林清親氏が『武蔵百景』で描いた「真間の継橋」。奥が「真間山弘法寺」で、この当時、橋周辺はまだ水部・湿地が拡がっていた。【図は1884(明治17)年】

地図は明治時代の迅速測図で中央が「真間の継橋」。水部の周りに「萱」と記されており湿地であったことがわかる。【地図は明治前期~明治中期】

写真は大正期~昭和初期の「真間の継橋」。1916(大正5)年に木橋から朱塗欄干の石橋に架け替えられた。奥に「真間山弘法寺」の「仁王門」が見える。【画像は大正期~昭和初期】

写真は現在の「真間の継橋」。このあたりの水路は暗渠化・下水道化されたため、橋の下に水は見えない。

江戸時代から様々な説が推察されてきた禁足地「八幡不知森」

「八幡不知森(やわたしらずのもり)」は「八幡の藪知らず」とも呼ばれる古くからの禁足地で、『足を踏み入れると二度と出てこられなくなる』という伝承が伝わる。その理由は明らかではなく、江戸時代から様々な説が推察されてきた。江戸後期に出版された『江戸名所図会』の本文では、(1)かつての「葛飾八幡宮」跡地であったため(2)平将門に関連する伝説の地であったため(3)行徳村の入会地(いりあいち)であったため、という3説が記載されている。図はその『江戸名所図会』に掲載されているもので、右下の通りが「佐倉道」(現「千葉街道」)、右端が「八幡不知森」。左上には下総国の総鎮守「葛飾八幡宮」(図では「八幡八幡宮(やはたはちまんぐう)」と表記)が描かれている。
MAP __(八幡不知森)MAP __(葛飾八幡宮) 【図は1836(天保7)年】

写真は1963(昭和38)年頃の「八幡不知森」。右の鳥居・祠は「葛飾八幡宮」の境外社「不知森神社」。【画像は1963(昭和38)年頃】

写真は現在の「八幡不知森」。2002(平成14)年に北側の歩道が拡張されたときに、若干削られている。

写真右の緑地が「八幡不知森」で、中央の道は「千葉街道」、左奥の大きい建物は「市川市役所 第一庁舎」となる。「市川市役所 第一庁舎」は旧庁舎を建て替えたもので、2020(令和2)年に開庁した。
MAP __(市川市役所)


繰り広げられた合戦

「里見諸士群亡塚」「里見諸将群霊墓」「里見弘次公廟」の碑

江戸時代になって立てられた「里見諸士群亡塚」(左)、「里見諸将群霊墓」(中央)、「里見弘次公廟」(右)と三つ並んだ碑。
MAP __

要衝の地であった市川は、歴史上、数々の合戦や戦乱の舞台となった。中でも、特に大きな2つの戦が知られている。

まず、戦国時代の「国府台合戦」が挙げられる。1538(天文7)年の第一次合戦と、1563(永禄6)年から1564(永禄7)年にかけて行われた第二次合戦があり、下総国の「国府台城」一帯で、北条氏と、里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた大規模なものであった。結果、北条氏が勝利し、下総地方にまで勢力を伸ばすきっかけとなり、関東の覇者としての地位が一層高まることになった。


「国府台合戦」の「古戦場」

『江戸名所図会 七巻』より「国府台合戦」の「古戦場」。
【図は1836(天保7)年】

図は『江戸名所図会 七巻』より「国府台合戦」の「古戦場」。右上に「石ひつ」という記載があるが、これは1479(文明11)年に太田道灌の弟・資忠が「国府台城」を築城した際に出土したものといわれる。現在は6世紀後半の前方後円墳「明戸古墳」の石棺と推定されており、「里見公園」内で見ることができる。
MAP __(明戸古墳石棺)


官軍兵士3名を葬った3基の墓石

「東昌寺」に立てられた八幡で戦死した官軍兵士3名を葬った3基の墓石。 MAP __

幕末期には、新政府軍と幕府の内乱である「戊辰戦争」の際、「市川・船橋戦争」の舞台となった。1868(慶応4)年閏4月3日、市川から船橋にかけての各地で戦闘が繰り広げられた。市川市内にある「東昌寺」の墓地には、このときに八幡で戦死した官軍兵士3名が埋葬された墓石が3基残されている。

1924(大正13)年頃には「国府台合戦」の古戦場を偲び、跡地に滑り台やプールなどがある遊園地「里見八景園」が開園したが戦時中に閉鎖。1959(昭和34)年に、市川市により改めて「里見公園」として整備されて現在に至る。市民や歴史ファンの憩いの場であり、桜の名所としても知られている。


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