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星ヶ丘の誕生と発展

現在の星が丘一帯は、江戸期には尾張藩の御用林で、明治期以降も大きな開発は見られなかった。昭和30年代の「星ヶ丘団地」の建設からこの地の本格的な開発が始まり、学校もこの頃から多く立地するようになった。1959(昭和34)年には市電が、1967(昭和42)年には地下鉄が延伸されるなど交通の利便性も向上。その後、レジャー施設や商業施設の開業もあり、現在では人気の住宅地・商業地、文教エリアという性格を併せ持つ街となっている。


「日本住宅公団」の「星ヶ丘団地」 MAP __

現在の星ヶ丘の開発は、1955(昭和30)年の「日本住宅公団」による団地の建設から始まった。団地名は「星にもっとも近く、輝く星の美しい丘」として「星ヶ丘」と命名され、1957(昭和32)年の入居開始とともに、町名としての「星ヶ丘」も誕生した。写真は「星ヶ丘団地」の様子(撮影年代は不明)。1990(平成2)年から建替事業が行われ、1999(平成11)年に完了、現在は「アーバンラフレ星ヶ丘」と呼ばれている。【画像は撮影年代不明】

25階建ての「10号棟」

過去の写真右手の「星ヶ丘マート」の右付近が、写真右側の25階建ての「10号棟」。過去の写真左手のボックス型ポイントハウスがあった場所に2003(平成15)年「ヤマダ電機 テックランド星ヶ丘店」がオープンした。

1959(昭和34)年撮影の「星ヶ丘団地」

写真は1959(昭和34)年の撮影で、中央の建物群が「星ヶ丘団地」。この年に「愛知淑徳中学校・高等学校」(団地から道路を挟んで左上の大きい建物)が移転してきているほか、右下では1962(昭和37)年に開校する「椙山女学園大学」の造成工事が行われており、文教エリアとしての歴史もこの頃から始まっている。団地の手前に見える森は、現在「星ヶ丘ボウル」「星が丘テラス」などになっている。【画像は1959(昭和34)年】

「椙山女学園大学」の移転 MAP __

「椙山女学園大学」は1949(昭和24)年に千種区山添町の「椙山女学園高等学校」「椙山女学園中学校」の校地内に家政学部の単科大学として開学。1962(昭和37)年に「星が丘キャンパス」が完成、移転した。【画像は1962(昭和37)年】

現在では7学部4研究科(うち「星が丘キャンパス」に6学部3研究科)、約6,100名が学ぶ女子総合大学へと発展している。星ヶ丘では、1959(昭和34)年に「愛知県立東山工業高等学校」(現「愛知県立愛知総合工科高等学校」)が開校、「愛知淑徳中学校・高等学校」が移転、1962(昭和37)年に「名古屋市立菊里高等学校」も移転してくるなど、学校が多く立地するようになり、1971(昭和46)年には「星ヶ丘駅」一帯が都市計画法上の「文教地区」に指定。「学園の街」としても発展している。


星が丘の街づくりの中心企業

現在の星が丘の街づくりに大きな役割を果たしている「東山遊園株式会社」を中心とする「星が丘グループ」。創業者の水野鐘三は「東山公園」誕生や「田代土地区画整理組合」にも大きく関わった人物であった。

水野家は丸山村(現・千種区丸山町一帯)で代々商家を営んできた。鐘三は1925(大正14)年に「徳川御用林」と呼ばれた官有地の払下げを受けた。その土地は現在の「東山動植物園」の中心部、正面入口から「上池」にかけての区域などであった。翌年、この土地一帯が都市計画公園(後の「東山公園」)の一部に指定。その後の「東山公園」開園の経緯はこちらのコラムの通りであるが、その中で、鐘三は所有地の内、約5・25万坪を名古屋市に寄付、約4万坪を売却し公園造成に協力した。開園当初の公園面積は約24・5万坪であり、鐘三の譲渡した土地は全体の4割近い面積にあたる。また、「田代土地区画整理組合」では設立当初に副組合長(後に組合長)を務めており、区画整理においても地域の発展に大きく貢献している。

終戦後、「東山動物園」と「東山植物園」は1946(昭和21)年に再開された。鐘三は、市長の勧めもあり「上池」での貸しボートと休憩所の営業を始め、翌年「東山ボート」として本格的に営業を開始。1948(昭和23)年には、「東山公園協賛会」を設立し、会長として公園の各種行事に積極的に協力した。

1951(昭和26)年、「東山遊園」として法人化。昭和30年代に「星ヶ丘団地」の開発で都市化が進むと、星が丘の地で多角的な事業を展開した。商業ビル経営も開始し、1961(昭和36)年には「愛知県住宅供給公社」との共同建築の「星ヶ丘第一ビル」が完成、1階にはスーパーマーケットが入った。1974(昭和49)年には「星ヶ丘第二ビル」が完成、百貨店を誘致し「オリエンタル中村 星ヶ丘店」が開店した。

1963(昭和38)年に「星丘自動車学校」(現「星が丘自動車学校」)を開校、1970(昭和45)年に「星ヶ丘ボウル」をオープン、1983(昭和58)年に「星ヶ丘スポーツP&S」(室内プールとスケート場、1999(平成11)年閉鎖)をオープンさせるなど、モータリゼーション関連事業、スポーツ事業にも注力。現在に至るまで、時代に即したさまざまな施設を開発・運営する企業となっている。


「星が丘グループ」のレジャー・商業施設

1970(昭和45)年のオープン当時の「星ヶ丘ボウル」。ワンフロアに100レーンの広大な施設で、ワンフロアとしては当時世界3位の規模であった。後ろに見える白い建物は「椙山女学園大学」の校舎。 MAP __【画像は1970(昭和45)年】

写真は同地点の現在の様子。「星ヶ丘ボウル」は現在も同じ場所・建物で営業を続けているが、その敷地法面の部分と、道路を挟んで反対側の「星ヶ丘スポーツP&S」跡地に、2003(平成15)年、ショッピング施設の「星が丘テラス」が開業。回遊しながらショッピングやグルメを楽しめる施設として人気がある。

1973(昭和48)年に撮影された「星ヶ丘第一ビル」。3~5階は「愛知県住宅供給公社」の住宅であった。1階には「東亜スーパー」(のちに「サンナカムラ」「ヒルズマート」)などの店舗が入っていた。 MAP __【画像は1973(昭和48)年】

同地点の現在の様子。「星ヶ丘西交差点」の角地には、2008(平成20)年に生活関連企業による「デザインの間」が開業したが、2014(平成26)年に閉鎖。翌年、食物販に特化した新たな商業施設「THE KITCHEN(ザ・キッチン)」がオープンしている。

1974(昭和49)年に「星ヶ丘第二ビル」が完成し「オリエンタル中村 星ヶ丘店」が開店。写真は開店当初の撮影。 MAP __【画像は1974(昭和49)年】

「オリエンタル中村」は名古屋の地元資本の百貨店であったが、1977(昭和52)年に「三越」の傘下に入り、「星ヶ丘店」も「名古屋三越 星ヶ丘店」となった。現在は「星ヶ丘三越」と呼ばれ、地域住民に愛される百貨店として賑わっている。


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