「平和堂」の内部は年に数回公開され、「千手観音」を見ることができる。
1900(明治33)年、名古屋市で米・雑穀・飼料商「伊藤和四五郎商店」(現「さんわグループ」、「名古屋コーチン」の販売などで有名)を創業した伊藤和四五郎氏は、1920(大正9)年に57歳で隠居、観世音信仰を通じて社会貢献に取り組んでいた。1927(昭和2)年、現在の東海市に新たに建立された「聚楽園大仏」(像高約19m・鉄筋コンクリート製)の参拝をきっかけに、念願であった観音像の建立を決心、同年より準備を開始し、門井耕雲氏に仏師を依頼した。検討の結果、高さ約10mの木造像の「十一面大観世音立像」(以下「大観音」)を建立することとし、翌年「大龍寺」(五百羅漢で有名)門前にアトリエが完成、制作が進められた。1931(昭和6)年、当時としては世界一の高さの木造像となる「大観音」が完成し開眼供養が行われた。
和四五郎氏は「大観音」を奉安する「観音一大聖地」を建設するため、「東山動物園」の西、約1万坪の土地を購入し、1935(昭和10)年に奉安所が完成。「東山観音」とも呼ばれるようになった。
「平和堂」内部の公開では、コンクリート像作家の浅野祥雲氏による歴代の名古屋市長の胸像も見ることができる。写真は「大観音」を南京に寄贈当時に市長だった縣忍(あがたしのぶ)氏。
しかし、「南京事件」後の日華友好という政治的な意図もあり、南京市の「毘盧(びる)寺」へ「大観音」を寄贈する話が市を中心に国、県、軍部、仏教会の協力の下で進められ、1941(昭和16)年3月に南京へ贈られた。和四五郎氏はこの翌々年に逝去している。
同年5月、返礼として、「毘盧寺」より高さ約3.5mの「千手観音」が、名古屋に安置することを条件に日本の仏教徒宛てに贈られ、戦中から戦後にかけて「覺王山」などに仮安置された。1964(昭和39)年、「平和公園」内に「平和堂」が完成、「千手観音」は堂内に安置されるようになり現在に至っている。「毘盧寺」に寄贈された「大観音」は、戦後の「中国文化革命」の際、紅衛兵により破壊され現存していない。