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戦災復興と「平和公園」

空襲で建物面積の約4割を焼失するという大きな被害を受けた名古屋市では、戦後、戦災復興土地区画整理事業が行われ、その一環として市街地の墓碑は「平和公園」へ移転した。「平和公園」内には「平和堂」が建設され、1941(昭和16)年に南京から名古屋へ贈られていた「千手観音」を安置している。また、自由ヶ丘には戦災による住宅難を解消するための大規模な住宅団地も建設されており、千種区にあった広大な丘陵地が、名古屋市の戦災復興に活用された。


「平和公園」の建設 MAP __

名古屋市は戦災復興土地区画整理事業の一環として、寺院自体は市街地に置いたまま、墓地のみを郊外に移転させ、道路用地や公園用地などを確保することとし、1947(昭和22)年より「平和公園」へ墓碑の移転が開始された。市内の279寺の墓地約18ha、約1万9千基が、「東部丘陵」の約147haの土地に順次移転し、1981(昭和56)年に墓碑の移転が完了した。写真は1952(昭和27)年頃の様子。【画像は1952(昭和27)年頃】

現在の「平和公園」の様子。緑地も多く、散策などを楽しむ人も多い。尾張徳川藩の歴代藩主の墓など由緒ある墓所も当地に移転されている。開園の経緯から、寺院ごとに区画が分かれている。写真右の池は「猫ヶ洞池」。

戦後に住宅地へ発展した自由ヶ丘 MAP __

自由ヶ丘一帯は丘陵地で、江戸期には尾張徳川藩の狩猟地、戦前期は陸軍の演習地などがあった。戦後、戦災による住宅難を解消するため、1949(昭和24)年度の市営「楠荘」から始まり、14年間に約2,500戸の市営住宅が建設され、一大住宅団地である「千種台団地」となった。当時、学校やマーケット、公園などを含む総合住宅団地は全国的にも例が少なく、観光名所ともなったという。町名の「自由ヶ丘」は、住民が募集・選定・請願を行い、1955(昭和30)年に制定された。写真は1957(昭和32)年頃の撮影で、手前一帯が市営「金児荘」、奥が「名古屋市立商業高等学校」(1955(昭和30)年にこの地へ移転)、その間が市営「楠荘」、右のグラウンドは「名古屋市立城山中学校分校」(1956(昭和31)年開校、のちの「千種台中学校」)。 【画像は1957(昭和32)年頃】

現在の「自由ヶ丘駅」付近の様子。以前この場所にあった「名古屋市立千種台中学校」は「千種台ふれあいタウン整備事業」により2001(平成13)年に隣接地に移転、2003(平成15)年、名古屋市営地下鉄4号線(現・名城線)の延伸とともに「自由ヶ丘駅」が開業した。


南京に贈られた「十一面大観世音立像」

「千手観音」

「平和堂」の内部は年に数回公開され、「千手観音」を見ることができる。

1900(明治33)年、名古屋市で米・雑穀・飼料商「伊藤和四五郎商店」(現「さんわグループ」、「名古屋コーチン」の販売などで有名)を創業した伊藤和四五郎氏は、1920(大正9)年に57歳で隠居、観世音信仰を通じて社会貢献に取り組んでいた。1927(昭和2)年、現在の東海市に新たに建立された「聚楽園大仏」(像高約19m・鉄筋コンクリート製)の参拝をきっかけに、念願であった観音像の建立を決心、同年より準備を開始し、門井耕雲氏に仏師を依頼した。検討の結果、高さ約10mの木造像の「十一面大観世音立像」(以下「大観音」)を建立することとし、翌年「大龍寺」(五百羅漢で有名)門前にアトリエが完成、制作が進められた。1931(昭和6)年、当時としては世界一の高さの木造像となる「大観音」が完成し開眼供養が行われた。

和四五郎氏は「大観音」を奉安する「観音一大聖地」を建設するため、「東山動物園」の西、約1万坪の土地を購入し、1935(昭和10)年に奉安所が完成。「東山観音」とも呼ばれるようになった。

歴代の名古屋市長の胸像

「平和堂」内部の公開では、コンクリート像作家の浅野祥雲氏による歴代の名古屋市長の胸像も見ることができる。写真は「大観音」を南京に寄贈当時に市長だった縣忍(あがたしのぶ)氏。

しかし、「南京事件」後の日華友好という政治的な意図もあり、南京市の「毘盧(びる)寺」へ「大観音」を寄贈する話が市を中心に国、県、軍部、仏教会の協力の下で進められ、1941(昭和16)年3月に南京へ贈られた。和四五郎氏はこの翌々年に逝去している。

同年5月、返礼として、「毘盧寺」より高さ約3.5mの「千手観音」が、名古屋に安置することを条件に日本の仏教徒宛てに贈られ、戦中から戦後にかけて「覺王山」などに仮安置された。1964(昭和39)年、「平和公園」内に「平和堂」が完成、「千手観音」は堂内に安置されるようになり現在に至っている。「毘盧寺」に寄贈された「大観音」は、戦後の「中国文化革命」の際、紅衛兵により破壊され現存していない。


世界一の木造像の建立と「平和堂」

写真は1931(昭和6)年に完成した「大観音」。左下が耕雲氏、右下が和四五郎氏。【画像は1931(昭和6)年頃】

1937(昭和12)年作成の鳥瞰図の一部。「東山動物園」の西、図の左側の「大観音」と書かれた所が奉安所であった。
MAP __(奉安所跡)【図は1937(昭和12)年】

1964(昭和39)年、「平和公園」内に「平和堂」が完成。「毘盧寺」より送られた「千手観音」は堂内に安置され現在に至っている。
MAP __(平和堂)【画像は1964(昭和39)年】

現在の「平和堂」。


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