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「覺王山」と周辺の発展

1898(明治31)年、インド北部で19世紀東洋史上の一大発見といわれた「真舎利」(釈迦の遺骨の一部)の発見があり、その後、一部は日本へ贈られた。官民一致の誘致運動もあり、名古屋への奉安所の誘致に成功、1904(明治37)年「覺王山日暹寺(にっせんじ)」(1941(昭和16)年に「日泰寺(にったいじ)」に改称)が創建され、以降、多くの人で賑わう地として発展していった。



「覺王山日暹寺」の創建

1898(明治31)年、インド北部において、「真舎利」(釈迦の遺骨の一部)がイギリスの駐在官により発掘された。これにより釈迦の実在が立証され、19世紀東洋史上の一大発見といわれた。翌年、当時世界で唯一の独立国としての仏教国であったシャム国(現在のタイ王国)のチュラーロンコーン国王(ラーマ5世)へ寄贈され、1900(明治33)年、国王から「真舎利」の一部が、シャム国の国宝であった「金銅釈迦如来像」とともに日本へ贈られた。「真舎利」は京都の寺院に仮安置され、仏教各宗代表が奉安する寺院の建立を協議、候補地をめぐって意見が分かれたが、名古屋の官民一致の誘致運動もあり、1902(明治35)年に最終奉安地は名古屋に決まり、「真舎利」は名古屋へ移され「万松寺」が仮奉安所となった。

その後、1903(明治36)年に当時の田代村月見坂が建設地として選定された。その理由は、当時の村長であった加藤慶二氏の私財を投じての誘致運動と土地の提供があったことが大きく、ほかに「尾張四観音」のうち「笠寺」と「竜泉寺」を南北に結ぶ巡礼道「四観音道」と、名古屋中心部と鍋屋上野村の斎場を東西に結ぶ道(「焙烙街道」の一部)が交差する仏縁の地であったことなどといわれる。

こうして、「覺王山日暹寺」が1904(明治37)年に創建となった。本尊は国王から賜った「金銅釈迦如来像」を祀っている。山号の「覺王」は「覚りの王」として釈迦を表し、寺名の「日暹」は日本とシャム(暹羅)国の友好を象徴している。1911(明治44)年に参拝客のため、路面電車が月見坂(後の覚王山)まで開通し交通の利便性も向上。また、1909(明治42)年には「四国八十八ヶ所」の写し霊場も開設され、多くの参拝者で賑わうようになり、門前町も発展した。

1939(昭和14)年にシャム国がタイ王国へ改名したことから、1942(昭和17)年に「日泰寺」に改称。設立の経緯から、現在も日本で唯一のいずれの宗派にも属さない超宗派寺院となっており、19宗派の管長が輪番制によって3年交代で住職を務め、各宗の代表が役員として日常の寺務に携わっている。


「覺王山日暹寺」と「奉安塔」

「覺王山日暹寺」の堂宇が建設された1904(明治37)年は、2月に「日露戦争」が開戦しており、時局への配慮から最低限となる「仮本堂」での創建となった。写真は1910(明治43)年頃の「仮本堂」。「仮本堂」の西側(写真では左側)数間の場所に「本堂」が建設される予定であった。
MAP __【画像は1910(明治43)年頃】

創建時の「仮本堂」は結局戦後まで使用され、1984(昭和59)年に現在の本堂に建て替えられた。写真は弘法大師の縁日で賑わう境内の様子。

「真舎利」を安置する「奉安塔」は建築家・伊東忠太氏の設計で、1918(大正7)年に完成した。手前に見える「礼拝殿」も同年の完成。
MAP __【画像は大正期】

現在は「通天門」より先は一般に公開されていないため、「礼拝殿」と「奉安塔」の一部のみを見ることができる。

「覺王山」の門前町の発展 MAP __

写真は明治後期、「覺王山」の創建当初の頃の参道の様子。手前の「高針道」(現「広小路通」)沿いに数軒家屋が見える程度でまだ賑わいは見られない。【画像は明治後期】

現在、参道は門前町・商店街として発展し賑わっている。大正期・昭和初期に創業した老舗も残る。

「覺王山境内八十八ヶ所弘法大師」の開設MAP __(一番札所)

1909(明治42)年に「覺王山」境内に「四国八十八ヶ所」の写し霊場が開設され、大いに賑わうようになった。大正期に出版の本『東山名勝』には『弘法大師の命日と称して毎月二十一日は遠近より老若男女群集参詣して引きも切れず、晴雨に拘わらず電車は崩れんばかり大混雑を極め』と記されている。図は同書掲載の札所の地図。「覺王山」を中心に広範囲にわたり各札所が配置されていたことがわかる。【図は1921(大正10)年】

毎月21日の弘法大師の縁日は「弘法さん」と呼ばれ、現在も境内一円に露店が出店され終日賑わう(本堂の写真参照)。この日には「四国八十八ヶ所」の写し霊場の巡礼も行われる。道路の整備などで当初の場所より移転している札所も多い。

「日清戦役第一軍戦死者記念碑」と「放生池」

「日清戦役第一軍戦死者記念碑」は「広小路通」と「武平町通」が交差する、現在の「中区役所交差点」の中心に建立され1903(明治36)年に竣工式が行われた。同年、「名古屋電気鉄道」の路面電車が「千種駅」まで延伸されるが、記念碑を避けてカーブする際の騒音が大きく、当時交差点の北東角にあった県会議事堂の議事に支障が出たことから、1920(大正9)年に「放生(ほうじょう)池」畔に移設された。「放生池」は「上姫ヶ池」の別名で、江戸期に「西どろあき池」、明治期には「西源蔵池」と呼ばれた。「覺王山」の創建後、「放生会(ほうじょうえ)」に使われ「放生池」と呼ばれるようになり、「東山動物園」ができる頃までは市民の遊山の地として賑わった。【画像は大正後期~昭和戦前期】

「放生池」は1983(昭和58)年に埋立てられ、近年は「覺王山」の臨時駐車場になっていたが、2022(令和4)年に自動車ディーラー(写真左)が開業した。現在、その向かい、「覺王山」の境内の一角(写真右)に、1918(大正7)年に建立された「放生池」の碑が移設されている。
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現在の「日清戦役第一軍戦死者記念碑」。「日清戦争」の「第一軍」は名古屋の第三師団と広島の第五師団から成っていたため、広島にも同形のものが建立されていたが、「太平洋戦争」中に金属供出、または原爆で失われたといわれ、現存していない。
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