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戦後復興期の銀座

終戦後、銀座の百貨店などは「PX」(進駐軍専用の売店)として接収された。戦後復興が進むと、灰じん(瓦礫)の処理のために「三十間堀川」は埋立てられた。「銀座通り」などに並んだ露店は戦後復興期の住民の生活を支えたが、「露店整理」により撤去され、代替となる共同店舗は「三十間堀川」の埋立て地に作られた。


「PX」として接収された銀座の老舗 MAP __(松屋 銀座本店)

終戦後、1946(昭和21)年より、「服部時計店」(現「和光」)、「伊東屋」など銀座の老舗の多くが「連合国最高司令官総司令部」(以下「GHQ」)により「PX」として接収された。「松屋 銀座本店」も同年に全面接収され、「TOKYO PX」として利用された。写真は1946(昭和21)年頃、「GHQ」のスタッフとして日本に滞在していたロバート・モージャー氏が撮影したもの。「TOKYO PX」の大きな看板が掲げられている。右下の「銀座通り」の歩道上には露店も見える。【画像は1946(昭和21)年頃】

「松屋 銀座本店」は1952(昭和27)年に接収が解除となり、翌年全館新装オープンとなった。写真は現在の「松屋 銀座本店」。1964(昭和39)年に銀座三丁目6番の一街区全てを敷地とする増築が行われている。

「三十間堀川」の埋立て MAP __

戦中期の「東京大空襲」などで東京の区部は1/4が焼失した。終戦の翌年頃から戦災復興の区画整理が本格化すると、膨大な灰じん(瓦礫)が道路にあふれるように。その処理のため運河の埋立てが行われることとなった。銀座・京橋一帯では、1948(昭和23)年度の事業として「三十間堀川」の埋立てが行われた。写真は埋立て直前の「三十間堀川」。写真手前が「三原橋」。【画像は1948(昭和23)年】

埋立て工事が竣工する直前の「三十間堀川」。写真は銀座四丁目から銀座五丁目方面を望んでいる。1952(昭和27)年、写真手前の「三原橋」跡の下に「三原橋地下街」が開設された。【画像は1949(昭和24)年】

「露店整理」で失われた銀座の露店

銀座の露店(夜店)は戦中期は見られなくなったが、戦後の経済と社会の情勢の中で再び賑わうようになり、復興期の住民の生活を支える存在となった。写真は戦後すぐの頃の銀座。 MAP __【画像は昭和20年代】

復興が進むと、都内各所にできていた露店は、秩序の悪化や道路の占拠など弊害が取り沙汰されるようになり、1949(昭和24)年、「GHQ」は交通・防災・衛生・美観上の理由から都内の公道の露店を撤去するよう指示、翌年、「東京都建設局」内に「臨時露店対策部」(当時の建設局長・対策部長は戦前の名古屋の土地区画整理や戦後の歌舞伎町の都市計画などで知られる都市計画家・石川栄耀(ひであき)氏)が設置され、「露店整理」が進められた。銀座の露店は明治期からの歴史があるものであったが、他の街の露店と同様、1951(昭和26)年までに撤去された。写真は「露店整理」後の銀座。【画像は昭和20年代】

写真は現在の銀座五丁目付近で、銀座六丁目方面を望んでいる。

「露店整理」で誕生した共同店舗

東京都は「露店整理」後も店を続けたい業者に対して、資金融資の斡旋などの対策をとり、特に、協同組合を結成し共同店舗を建設する場合は、建設資金融資のほか、都有地の提供も行った。銀座では、都有地であった「三十間堀川」の埋立て地の一部が提供され、銀座一丁目には、約200名の露店商が入る共同店舗「銀一ストア」が1951(昭和26)年に建設された。
MAP __【画像は1952(昭和27)年】

「銀一ストア」は、のちに「第一ストアービル」と改称、建物は1980年代まで残っていた。現在この場所は「銀座ファーストビル」となっている。

「三原橋」は「三十間堀川」に架かっていた「晴海通り」の橋。「三十間堀川」の埋立て後の1952(昭和27)年、かつての「三原橋」の下に「三原橋地下街」が、翌年にはその両端に2棟のビル(写真右下の建物)が完成、「露店整理」後に「数寄屋橋公園」の仮設店舗で営業していた元・露店が移転してきたほか、映画館なども開設された。写真は1959(昭和34)年頃の撮影。「三原橋地下街」とビルの設計者は土浦亀城氏。写真左端付近に見える「MIMATSU」の看板は、1940(昭和15)年に開業した「キャバレー美松」。戦後、銀座を代表するキャバレーの一つとなったが、1962(昭和37)年に閉店した。「美松」の店名は、戦前期、日比谷にあった「美松百貨店」に由来している。【画像は1959(昭和34)年頃】

「三原橋地下街」は2014(平成26)年に閉鎖、その後解体された。2棟のビルの跡地は「三原橋街角広場」となっている。
MAP __(三原橋街角広場)

「東京興行株式会社」は1952(昭和27)年に「三原橋地下街」にニュース映画専門の映画館「テアトル三原橋」を開館した。隣は当初は「銀座ゲームセンター」というパチンコ店であったが、1954(昭和29)年に映画館「銀座東映」に改装、1967(昭和42)年に「銀座地球座」となり(写真はこの頃に撮影)、その翌年には「テアトル三原橋」の経営・名称も変わり、「銀座名画座」となった。その後、「銀座名画座」は「シネパトス1」に、「銀座地球座」は二つに分割されて「シネパトス2・3」となっていたが、「三原橋地下街」の建物の取り壊しが決まり、2013(平成25)年に営業を終了した。【画像は1967(昭和42)年頃】


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