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戦前期の商業

1923(大正12)年に発生した「関東大震災」(以下震災)からの復興期、銀座には百貨店の進出も続いた。1924(大正13)年に「松坂屋」、翌年に「松屋」、1930(昭和5)年には「三越」が開店。1930(昭和5)年は、それまで一~四丁目だった銀座が、尾張町が五丁目になるなど、八丁目まで拡大された年でもあった。東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)も1932(昭和7)年に「京橋駅」、1934(昭和9)年に「銀座駅」、さらに「新橋駅」まで開業するなど、交通の利便性も向上し、さらに多くの買い物客で賑わう街となった。


昭和初期の「銀座通り」 MAP __(銀座四丁目交差点)

写真は1937(昭和12)年頃の「銀座四丁目交差点」付近で、時計塔のある建物が「服部時計店」、その奥の建物が書店の「教文館」。「服部時計店」の向かいの建物が「三越」で、その奥の大きい建物が「松屋」となる。市電の先、遠方正面に見える高い建物は京橋の「第一相互館」。【画像は1937(昭和12)年頃】

現在の「銀座四丁目交差点」付近。「服部時計店」は戦後、「和光」となっている。

昭和初期の京橋 MAP __(第一相互館)

写真は1937(昭和12)年頃の撮影で、手前の橋が「京橋」。右のドームがある高い建物が1921(大正10)年に竣工した「第一相互館」で、「第一生命保険」の本社として建設された。設計は「日本銀行本店」や「東京駅」も手掛けた辰野金吾、高さは約45mで、震災以降、1935(昭和10)年に日本橋の「三越本店」が増築されるまでの間、日本一高い建物であった。その手前のドームがあるビルは「昭和銀行 京橋支店」(1914(大正3)年に「豊国(とよくに)銀行 京橋支店」として竣工)。写真左手の尖がっている屋根の建物は「大同生命ビル」(1916(大正5)年竣工)。これらの建物は震災でも倒壊しなかった。左奥のビルは震災前に着工、1925(大正14)年に竣工した「片倉製糸紡績」(現「片倉工業」)の本社ビル「片倉館」(のちの「片倉ビル」)。「大同生命ビル」の手前のモダニズム建築は「福徳生命ビル」(1932(昭和7)年竣工)。【画像は1937(昭和12)年頃】

写真は1962(昭和37)年頃の「京橋」付近の街並み。この当時は、「第一相互館」、「大同生命ビル」、「第百生命(旧・福徳生命)ビル」、「浜野繊維本社ビル」(旧「昭和銀行京橋支店」)、「片倉ビル」(この写真では範囲外)など、戦前期からのビルも残っていた。【画像は1962(昭和37)年頃】

写真は現在の「京橋」付近の街並み。「第一相互館」は、1969(昭和44)年に解体となり、跡地には「第一生命相互館」が1971(昭和46)年に竣工したが2009(平成21)年に再び解体。2012(平成24)年、初代の「第一相互館」をイメージするドームがデザインされた「相互館110タワー」が竣工した。「片倉ビル」は2009(平成21)年より解体、一帯で再開発事業が行われ、2013(平成25)年に「東京スクエアガーデン」が竣工した。

銀座の夜店

銀座の夜店は、明治期、失職した武士が始め発展したといわれ、昭和初期には「銀座通り」に200店以上が並んで賑わった。「服部時計店」や、天ぷらの名店として知られた「天金」も「銀座通り」の夜店を発祥としている。当初は飲食店が多く、昭和初期頃には日用品、玩具などを売る店が多かったという。1930(昭和5)年6月の平日、「築地警察署」が「銀座尾張町(現・銀座四丁目)交差点」で行った交通調査では、午後6時から7時の1時間に12,000人以上の歩行者数が記録されており、夜も多くの人出があったことがうかがえる。【画像は1931(昭和6)年頃】


「銀座の柳」

1874(明治7)年、「銀座通り」には、欧米のような街並みを目指し四辻に松・楓・桜が植樹された。しかし水分の多い土質のため枯れてしまい、湿地で育つ柳に植えかえられ、1884(明治17)年には、銀座の街路樹はほとんど柳となった。

昭和10年代の銀座の柳のある街並み

昭和10年代の銀座の柳のある街並み。撮影場所は現在の「イグジットメルサ」付近で「銀座四丁目交差点」方面を撮影。
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大正期には道路拡幅のための伐採や震災による焼失に遭い、「銀座の柳」は壊滅状態になった。1929(昭和4)年に発表された歌謡曲『東京行進曲』(西條八十(やそ)作詞、中山晋平作曲)の歌詞の冒頭には『昔恋しい銀座の柳』とあり、昭和初期に「銀座の柳」は過去の思い出であったことが描かれている。

この『東京行進曲』が大ヒットとなったことで、「銀座の柳」復活への機運が高まった。「朝日新聞社」の寄贈などにより約300本の柳の植樹が行われることとなり、「朝日新聞社」主催で1932(昭和7)年2月16日に銀座四丁目の「三越百貨店」前で植樹式が行われた。さらに同年3月27日には有楽町の「朝日新聞社」の講堂で「銀座柳復活祭」が開かれ、その中で『東京行進曲』のほか、西條と中山のコンビにより同日発売となった新曲『銀座の柳』も披露された。『銀座の柳』の歌詞の冒頭には『植えてうれしい銀座の柳』とあり、柳の植樹が描かれている。

戦時中に「東京大空襲」で多くを焼失するも、戦後に再び植樹され、1951(昭和26)年には「柳まつり」が復活。しかし、1968(昭和43)年に「銀座通り」の整備のため、203本の柳が日野にある「建設省街路樹苗圃」へ移植された。

「御門通り」に植えられている「銀座の柳 四世」

写真は「御門通り」に植えられている「銀座の柳 四世」。

1984(昭和59)年の新聞記事で、移植された苗圃に「銀座の柳」が3本しか残っていないことが報じられ、銀座の住民により復活活動が開始された。すでに再移植は難しい状態であったため、枝を50本貰い150本に切り分け挿し木し、うち86本を根付かせることに成功。1985(昭和60)年にそのうちの3本を「二世柳」として「御門通り」に植樹、以降、学校や全国各地に植樹が行われ、現在では「三世柳」「四世柳」も育成されている。



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