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「多摩田園都市」周辺の開発

1960年代から1980年代、「多摩田園都市」の開発と時を同じくして、周辺でもさまざまな開発が行われた。ここでは周辺の開発について、「多摩田園都市」との関連を中心に紹介する。


「桐蔭学園」の開校 MAP __

「桐蔭学園」は1964(昭和39)年に設立された学校法人。当時の「三菱化成工業」社長、柴田周吉氏による工業高等専門学校建設計画に対して、1962(昭和37)年に「東急電鉄」から「上鉄地区」の土地が譲渡された。「東急電鉄」による「上鉄地区」の土地買収は、開発初期の1959(昭和34)年に完了していたが、鉄道ルートが確定後、遠隔地となることから開発計画からは外れていた。写真は開校当時の空撮で、上が南になる。この校舎のあった場所は、現在は「桐蔭横浜大学」の中央棟となっている。【画像は1964(昭和39)年】

2014(平成26)年の創立50周年を機に、新しい時代を見据えた「自ら考え判断し行動できる子どもたちの育成」を新理念として掲げている。「桐蔭学園中学校・高等学校・中等教育学校」は県内有数の進学校として知られるほか、野球・サッカー・柔道などスポーツの分野においても優秀な人材を輩出してきている。写真は現在の「桐蔭学園」の空撮で、上が北になる。


「港北ニュータウン」の開発

「グリーンマトリックスシステム」の一部である「くさぶえの道」

「グリーンマトリックスシステム」の一部である「くさぶえの道」。
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1965(昭和40)年、横浜市の六大事業の一つとして発表された「港北ニュータウン」。1974(昭和49)年から「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)による土地区画整理事業が始まり、2005(平成17)年に完了となった。1983(昭和58)年に最初の街びらきとなった「荏田地区」は、隣接する「多摩田園都市」の「泉田向地区」とほぼ同時期に土地区画整理事業が行われ、一体となった道路・街区が整備された。

「港北ニュータウン」の特色である緑地・緑道のネットワーク「グリーンマトリックスシステム」や「タウンセンター・駅前センター・近隣センター」からなる「センター計画」、歩行者専用道路の整備など、「多摩田園都市」で実践されてきた街づくりとの共通点も多い。

再築造された「川和富士」 MAP __(現在の場所) MAP __(かつてあった場所)

この地はかつての池辺村と川和村の境界付近で、秣場(まぐさば・肥料を作るための野原)があり、その確保をめぐり村間で争いが多かったため「ケンカ山」とも呼ばれた。幕末に和解となり、記念として1860(万延元)年に富士塚の築造に着手、27年後の1887(明治20)年、高さ15間(約27m)という大規模な「川和富士」が完成となった。現在も残る「見花山(みはなやま)」という地名は、「ケンカ」に漢字を当てたもの。

写真は1981(昭和56)年当時の「港北ニュータウン」の造成工事の風景で、現在の都筑区見花山4付近から南東方向を望んでいる。かつての「川和富士」は手前の送電鉄塔の左のあたりにあったが、1978(昭和53)年頃に造成工事のため取り壊されている。中央に見える山が1996(昭和61)年に完成する新しい「川和富士」であるが、この時点で形状はほぼ完成して見える。「川和富士」の右手に見える建物は、撮影前年の1980(昭和55)年に開校した「横浜市立川和中学校」の校舎。【画像は1981(昭和56)年】

「川和富士公園」から北西方面を望む。中央の送電鉄塔のすぐ右側付近が、かつての「川和富士」があった場所。

1986(昭和61)年、かつての場所から約230m南に位置する「川和富士公園」内に「川和富士」が再現された。高さは約14mと大きいが、明治時代につくられた「川和富士」の高さはこの倍くらいあった。


皇太子殿下ご結婚へのお祝いから誕生した「こどもの国」 MAP __

現在も「こどもの国」園内に残る弾薬庫跡

現在も「こどもの国」園内に残る弾薬庫跡。

1959(昭和34)年の皇太子殿下(現・上皇陛下)のご結婚の際、全国の国民からお祝い金が寄せられたが、「お祝いの品よりこどもの施設を」というお二人の気持ちもあり、「厚生省」(現「厚生労働省」)内での検討の中から子どもが自然の中で自由に遊びまわれる「子供の国」(仮称)の構想が生まれ、その後、「朝日新聞社」の全面的な協力のもと、計画が進められることとなった。当初の候補地は埼玉県・朝霞と神奈川県・辻堂であったが、横浜市が奈良町の「田奈部隊」跡地を提案。「太平洋戦争」中に弾薬庫・工場があった場所で、当時は米軍に接収されていたが、豊かな自然に恵まれ立地に最適とされ、米軍への働きかけから1961(昭和36)年に返還が実現、建設が進められることとなった。同年、正式名が「こどもの国」と決まった。

お祝い金を基金とする財団法人が設立され、国民・企業からの寄付や国費の投入を受け建設が進められ、様々な業種の企業の協力もあり、1965(昭和40)年の「こどもの日」に開園を迎えた。

開園後も、スケート場、「皇太子記念館」などが順次整備されたほか、時代の変化に合わせたリニューアルが行われており、現在も人気のスポットとなっている。

同じ時期に「多摩田園都市」の開発を進めていた「東急電鉄」は、交通面で「こどもの国」に協力している。開園の翌年、1966(昭和41)年に東急田園都市線が延長開業となり、さらに翌年には「長津田駅」から、戦時中に利用された弾薬庫への引き込み線の跡を利用したこどもの国線が開業(「東急電鉄」が委託を受けて運行)。「こどもの国」は鉄道駅に直結する便利な施設となった。

現在も園内には、弾薬庫時代に掘られたトンネルや、多数の弾薬庫跡が残されているほか、当時学徒動員された女学生がのちに建立した「平和の碑」もあり、平和について考えさせられるスポットともなっている。

「こどもの国」開園当時の牧場の様子 MAP __

「こどもの国」の特長の一つが、皇太子殿下(現・上皇陛下)の発案から導入された牧場。「雪印乳業」の提案によって、オートメーションのミルクプラントも設置された。【画像は1965(昭和40)年頃】

現在の「雪印こどもの国牧場」。動物とのふれあいや、乳搾りの体験などが人気。ソフトクリームも味わえるほか、関東で唯一となる「特別牛乳」の購入もできる。

自動車の運転が人気に MAP __(中央広場) MAP __(コース)

開園当初、子どもたちに最も人気であった「ほんものの自動車」。専用に開発された100台の「ダットサンベビー」が「日産自動車」より提供された。講習と練習があり、合格すると独自の「運転免許」が発行され、一人で運転することができた。1973(昭和48)年末までに利用者は20万人以上、約46,000人もの子どもたちが免許を取得した。写真は1965(昭和40)年5月5日の開園日に中央広場に勢揃いした自動車。【画像は1965(昭和40)年】

自動車の老朽化が進んだことから、1975(昭和50)年に自転車コースとしてリニューアルされた。


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