現在も「こどもの国」園内に残る弾薬庫跡。
1959(昭和34)年の皇太子殿下(現・上皇陛下)のご結婚の際、全国の国民からお祝い金が寄せられたが、「お祝いの品よりこどもの施設を」というお二人の気持ちもあり、「厚生省」(現「厚生労働省」)内での検討の中から子どもが自然の中で自由に遊びまわれる「子供の国」(仮称)の構想が生まれ、その後、「朝日新聞社」の全面的な協力のもと、計画が進められることとなった。当初の候補地は埼玉県・朝霞と神奈川県・辻堂であったが、横浜市が奈良町の「田奈部隊」跡地を提案。「太平洋戦争」中に弾薬庫・工場があった場所で、当時は米軍に接収されていたが、豊かな自然に恵まれ立地に最適とされ、米軍への働きかけから1961(昭和36)年に返還が実現、建設が進められることとなった。同年、正式名が「こどもの国」と決まった。
お祝い金を基金とする財団法人が設立され、国民・企業からの寄付や国費の投入を受け建設が進められ、様々な業種の企業の協力もあり、1965(昭和40)年の「こどもの日」に開園を迎えた。
開園後も、スケート場、「皇太子記念館」などが順次整備されたほか、時代の変化に合わせたリニューアルが行われており、現在も人気のスポットとなっている。
同じ時期に「多摩田園都市」の開発を進めていた「東急電鉄」は、交通面で「こどもの国」に協力している。開園の翌年、1966(昭和41)年に東急田園都市線が延長開業となり、さらに翌年には「長津田駅」から、戦時中に利用された弾薬庫への引き込み線の跡を利用したこどもの国線が開業(「東急電鉄」が委託を受けて運行)。「こどもの国」は鉄道駅に直結する便利な施設となった。
現在も園内には、弾薬庫時代に掘られたトンネルや、多数の弾薬庫跡が残されているほか、当時学徒動員された女学生がのちに建立した「平和の碑」もあり、平和について考えさせられるスポットともなっている。