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戦前期までの街並みと風景

明治期以降、麻布・赤坂エリアは大きく発展・開発されてきており、戦後も大規模な開発が多く行われた。ここでは戦前期と現在の写真を比較し、変わった点、変わらない点、面影を残す点などを見ていく。


戦前の「青山通り」

写真は明治後期から大正前期の「青山通り」で、当時の「青山郵便局」前から撮影されたもの。手前の路面電車は、東京市街鉄道青山線として、1904(明治37)年に三宅坂・青山四丁目間の区間が開業、1906(明治39)年に会社合併により「東京鉄道」となったのち、1911(明治44)年に東京市により買収され「東京市電」、1943(昭和18)年より都制施行で「東京都電」となっている。「青山郵便局」は1891(明治24)年、青山南町三丁目(現・南青山二丁目23番付近)に創設、1910(明治43)年に青山南町四丁目(現・南青山二丁目27番付近)へ移転している。写真の「青山郵便局」は、どちらの時期の建物であるかは不明。【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の南青山二丁目27番付近。このあたりの区間の都電は、1968(昭和43)年に廃止となっている。現在、移転後の「青山郵便局」があった場所には「外苑前郵便局」がある。 MAP __

外国人が集まる街へ発展した六本木 MAP __

明治中期以降、周辺に「歩兵第一聯隊」と「歩兵第三聯隊」があった六本木は、軍隊の町として発展した。写真は1931(昭和6)年頃の「六本木交差点」。中央の書店「誠志堂」は軍事書の専門店であった。【画像は1931(昭和6)年頃】

戦後は、「歩兵第一聯隊」と「歩兵第三聯隊」の旧駐屯地に米軍が進駐し、六本木の街には米兵向けにクラブ、バー、レストランなどさまざまな店が作られた。このことから、現在も多くの外国人が集まる街として発展している。

「逓信省貯金局」跡地では日本一の超高層ビルが建設中 MAP __

「逓信省貯金局」は、1920(大正9)年に設置された「逓信省」の外局で、郵便為替、郵便貯金などを管掌した。写真は1930(昭和5)年に竣工した庁舎。1943(昭和18)年からは「逓信省」(1949(昭和24)年より「郵政省」)の本省庁舎となり、1945(昭和20)年からは「麻布郵便局」も利用するようになった。【画像は1935(昭和10)年頃】

戦後も1969(昭和44)年まで「郵政省」の本省庁舎として使用。近年は「日本郵政グループ飯倉ビル」「麻布郵便局」として利用されてきたが、「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」のため2019(平成31)年に解体された。跡地では、地上64階、地下5階、高さ約330mの日本一の超高層ビルが2023(令和5)年の完成予定で建設が進められている。「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」ではこの地区と共に、かつて「我善坊谷」「我善坊町」と呼ばれていた地区も一体的に整備される。

有栖川宮家の御用地だった「有栖川宮記念公園」

この地は、江戸時代は盛岡藩南部家の下屋敷で、1896(明治29)年に有栖川宮家の新邸造成の御用地となるが、その後、有栖川宮家は廃絶。祭祀や財産を引き継いだ高松宮殿下は1934(昭和9)年、御用地の一部を東京市に寄付され、東京市は「有栖川宮記念公園」を築造し同年開園となった。写真は開園時に造られた「太鼓橋」。 MAP __【画像は1935(昭和10)年頃】

「太鼓橋」は現在も園内に残っている。この橋より上流側(写真では奥)は渓流となっており、散策路も整備されている。

写真は「有栖川宮記念公園」の開園時に建てられた記念碑。記念碑の北側(写真では記念碑の背後)には「東京郷土資料陳列館」が、公園の東側隣接地(写真では記念碑の右側)には青少年修養道場の「東京府(のち東京都)養正館」が建設された。 MAP __【画像は1935(昭和10)年頃】

写真は現在の記念碑。「東京郷土資料陳列館」は東京における公立歴史博物館のルーツともいえる展示施設であったが、戦災などで荒廃し、戦後「武蔵野博物館」(「江戸東京たてもの園」の前身となる施設)に引き継がれた。戦後、「東京都養正館」の建物は進駐軍の接収などを経て、1954(昭和29)年から「東京都立教育研究所」となるが1966(昭和41)年に移転。建物は解体され、跡地には「東京都立中央図書館」が建設され、1973(昭和48)年に開館し現在に至る。

商業地として発展した麻布十番

図は江戸末期に描かれた『東都麻布之絵図』の麻布十番付近。麻布十番の「十番」は江戸期からの地名で、その由来として「古川」(図右下)の改修工事の際の工区番号などの説がある。「古川」は、改修後は「新堀川」とも呼ばれている。麻布十番は江戸期に町人地となって以降、商業地として発展した。図内右上に『此辺十番ト云(このあたりじゅうばんという)』という記述が見られる。図の白い部分は大名の上屋敷もある武家地で、灰色の部分が商店などが発展した町人地となる。

現在の麻布十番には、創業100年を超える多くの老舗が残り、中には1789(寛政元)年創業の蕎麦店「布屋太兵衛(永坂更科)」、1818(文政元)年創業の髪結い「吉床」(現・理容室「麻布I.B.KAN」)、1865(慶応元)年創業の豆菓子店「豆源」、1867(慶応3)年創業の「小林玩具店」など、江戸期創業の老舗もある。【図は江戸末期】

1923(大正12)年の「関東大震災」の際、麻布十番は被害が少なかったこともあり、震災復興期となる昭和初期には、繁華街としてさらに賑わうようになり、新聞の「盛り場」人気投票では、神楽坂新宿に次いで3位に選ばれたという。写真は昭和初期の「麻布十番大通り」。当時の麻布十番には200店以上の商店が軒を連ね、夜には露店も多く立ち並び、周辺には映画館などの娯楽施設も多く、大いに賑わった。写真右手前は「十番医院」で、二軒目は1929(昭和4)年に開店した百貨店「白木屋」の「麻布分店」(1939(昭和14)年閉店)。左手手前には「小林玩具店」の支店が見える。左手奥の高い看板は甘味・軽食のチェーン「三好野」の支店。
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写真は現在の「麻布十番大通り」。昭和初期に「小林玩具店」の支店などがあった場所は、現在は「永坂更科 布屋太兵衛」となっている。堀井家が江戸期から暖簾を守ってきた蕎麦店「布屋太兵衛(永坂更科)」は、戦時体制下の1941(昭和16)年に閉店となり一時途絶えたが、1949(昭和24)年、暖簾を復活させるため、堀井家の協力や「小林玩具店」の小林家らの出資により、「麻布永坂更科」(現「永坂更科 布屋太兵衛」)が開店となった。現在の麻布十番では「永坂更科 布屋太兵衛」のほか、「更科堀井」と「麻布永坂 更科本店」が「永坂更科」の伝統や屋号を引き継いでいる。

麻布十番の商店街は、戦時下に賑わいを失い、1945(昭和20)年には空襲で焦土と化したが、終戦後、商店主らにより復興が進められた。戦災復興の都市計画が決定すると、麻布十番は「環状三号線」の道路用地とされ、街が消滅する危機に陥ったが、麻布の住民でもあった東京都建設局長・石川栄耀氏の尽力により計画は変更となり、商業地としての土地区画整理が行われ、商店街として再発展する下地が整った。石川栄耀氏は、戦前期の 名古屋の土地区画整理、戦災復興期の新宿・歌舞伎町などで「盛り場」の思想を取り入れた都市計画の設計に関わっており、麻布十番においても、旧来からの商店街を結ぶ新道の中心に広場を配置している。空中写真は1963(昭和38)年撮影の麻布十番付近を拡大・加工したもので、中央部分が広場となる。【画像は1963(昭和38)年】

この広場は1986(昭和61)年に再整備され、現在は多目的広場「パティオ十番」となっており、商店街のイベントなどでも活用されている。
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