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行楽地・八事に鉄道が開通

江戸時代から信仰・行楽の地であった八事は、明治時代にも、「興正寺」などへの参拝や、『山行き』で賑わった。1907(明治40)年には馬車鉄道が開通し、1912(明治45)年には路面電車に変わった。豪商の別荘だった「八勝館」は、後に名古屋を代表する料亭となった。


ツツジの名所「天道山」

1890(明治23)年に発行された『尾張名所圖繪』には、『天道山春遊之景』として、散策や宴席を楽しむ人々の姿が描かれている。このあたりは、ツツジの花が咲く名所として知られ、『山行き』などといわれた行楽の場所であった。【画像は1890(明治23)年】

「天道山」の山頂には、1906(明治39)年に粟田廣治氏を顕彰する「源語会記念碑」が建てられた。粟田氏は「源語会」を設立、『源氏物語』を人々に講じ国文学の普及に尽力した人物であった。写真は現在の「源語会記念碑」。左手前と右奥、道を挟んで2基あることが確認できる。
MAP __(源語会記念碑)

現在、「天道山」周辺は閑静な住宅街に変わった。「天道山高照寺」の境内では、毎年、旧暦の10月14日に「天道祭」が行われている。写真は「八事南交差点」の南に残る「天道山大門」と記された道標。
MAP __(道標)

明治期に建てられた豪商の別荘は、名古屋の名料亭に MAP __

「八勝館」は、名古屋の材木商だった柴田孫助氏が、明治初期に八事に別荘を建てたことに始まる。名前は、雲照禅師の禅語「八勝道」に由来し、八事の景勝にも通じていたともいわれる。広大な敷地で桜・紅葉など四季折々の風光明媚な風景を楽しむことができ、1894(明治27)年頃の書籍や広告には『席貸、入浴も有ます』『巨大なる割烹店』『酒樓』『婚礼、内祝い、その他集会等に好都合』などの記述も見られるため、明治中期以降は料理店としても知られるようになったと考えられる。大正後期に不況などで経営が行き詰ると、名勝として有名であった「八勝館」を残すため、名古屋の財界の有力者らが出資し1924(大正13)年に「株式会社八勝倶楽部」を設立、経営を引き継いだ。

写真は大正期~昭和戦前期の「八勝館」。1950(昭和25)年の「第5回国民体育大会(愛知国体)」開催時には、建築家・堀口捨己氏の設計で、昭和天皇の宿泊用として、数寄屋造りの「御幸の間」が建設され、翌年には「日本建築学会賞」を受賞した。【画像は大正期~昭和戦前期】

現在は、約4,000坪の庭園を有している「八勝館」。美食家として有名だった北大路魯山人氏ゆかりの料亭としても知られ、館内には魯山人氏の作品が残されている。

明治期に馬車鉄道が開通 MAP __

1907(明治40)年、「飯田街道」上に「愛知馬車鉄道」が千種から八事まで開通、1912(明治45)年に路面電車となり「尾張電気軌道」へ改称、一般には「八事電車」と呼ばれ親しまれた。1929(昭和4)年に「新三河鉄道」の経営となり、1937(昭和12)年に名古屋市に買収され、名古屋市電八事線となった。写真は明治後期の「愛知馬車鉄道」の様子。【画像は明治後期】

現在の「興正寺」前付近の様子。「飯田街道」も拡張されるなど、景色は変わった。

「半僧坊新福寺」は1910(明治43)年に現在地へ MAP __

「半僧坊新福寺」は、現在の静岡県浜松市にある「臨済宗方広寺派」の大本山「方広寺」の名古屋別院。「半僧坊」の信仰は、明治時代に全国に拡がり、「新福寺」は1885(明治18)年に名古屋城下の南大津町で建立された後、1910(明治43)年に現在地に移った。「半僧坊」とは、「方広寺」の鎮守。後醍醐天皇の皇子だった無文元選の前に現れた守護神で、無文元選の生前は、元選の弟子となって身の回りの世話などをし、「姿は俗人で、心は僧」といわれたことに由来する。【画像は昭和戦前期】

現在の「半僧坊新福寺」。宮本武蔵の「新免政名供養碑」があることでも知られる。


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