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大戦景気による賑わい

1914(大正3)年に勃発した「第一次世界大戦」は日本に大戦景気をもたらした。工業化に拍車がかかり、「麒麟麦酒」や「森永製菓」などの工場が尼崎に進出。臨海部では港湾施設の整備が求められ、昭和初期に本格的な港湾開発が実施された。


「神崎駅」前にあった「麒麟麦酒 神崎工場」 MAP __

横浜において、1885(明治18)年に設立された「ジャパン・ブルワリー」を継承し、1907(明治40)年に「麒麟麦酒」が創立。1914(大正3)年に勃発した「第一次世界大戦」がもたらした好景気によりビールの消費が拡大すると、「横浜山手工場」に次ぐ第二工場として、1918(大正7)年に「神崎工場」が建てられた。写真は1919(大正8)年頃の「神崎工場」全景で、「神崎駅」(現・JR「尼崎駅」)付近から北西方面を望んでいる。1923(大正12)年9月に「関東大震災」が発生し「横浜山手工場」が壊滅的な被害を受けると、この「神崎工場」と、震災直前に操業を開始した「仙台工場」がビールの生産を支えた。【画像は1919(大正8)年頃】

1949(昭和24)年に「尼崎工場」へ改称。JR「尼崎駅」北側で実施された再開発事業への用地提供の要請を受け、1996(平成8)年に操業を終え神戸市北区へ移転した。「尼崎工場」跡地を含む一帯では再開発が行われ、2009(平成21)年に「あまがさき緑遊新都心地区」がまちびらきとなり、「尼崎工場」の跡地には、同年、商業施設の「あまがさきキューズモール」(写真)が開業した。写真右手奥の建物は「尼崎新都心病院」。

JR「塚口駅」前にあった「森永製菓 塚口工場」 MAP __

1899(明治32)年、創業者の森永太一郎氏がアメリカから帰国し「森永西洋菓子製造所」設立。東京の赤坂溜池に開いたわずか2坪の工場からスタートした。1912(大正元)年10月に「森永製菓」へ社名を変更。「第一次世界大戦」による需要の急増に対応すべく、「大阪工場」を設置したものの敷地が狭く、増設の余地もなかったため、1921(大正10)年、省線(現・JR)「塚口駅」の駅前に「塚口工場」が新設された。取得した6万坪の敷地には、鉄筋コンクリート3階建て、1,920坪のビスケット工場のほか、スタンド付きの野球場も設けられ、一般に無料開放されていた。写真は1924(大正13)年頃の撮影で、「塚口駅」付近から北東方面を望んでいる。【画像は1924(大正13)年頃】

「塚口工場」は長年「森永製菓」の主力工場として製造を続けてきたが、2013(平成25)年に閉鎖。跡地一帯では再開発が行われ2016(平成28)年に「ZUTTOCITY(ズットシティ)」としてまちびらきが行われ、駅前広場、商業施設などが整備された。大正期に「塚口工場」があった場所はマンションになっている。

戦前に開設された「園田競馬場」 MAP __

1930(昭和5)年、東寺田(現・田能二丁目)に「園田競馬場」が開設された。「太平洋戦争」での中断を経て、戦後は1948(昭和23)年に施行された「競馬法」により県および指定市町村が地方競馬を実施することとなり、兵庫県が「県馬匹組合」から「園田競馬場」を継承。1980(昭和55)年、管理・運営を行う「兵庫県競馬組合」が兵庫県・尼崎市・姫路市により設立された。【画像は1964(昭和39)年】

現在、関西においては「兵庫県競馬組合」が運営する「園田競馬場」と「姫路競馬場」以外の地方競馬場は全て廃止となっていることもあり、開催中は多くの地方競馬ファンが訪れる。2012(平成24)年にはナイター設備も設置され、現在は毎年春から秋の期間の金曜日にナイター競馬「そのだ金曜ナイター」が開催されている。

「阪神工業地帯」の中心として発展した「尼崎港」 MAP __(撮影地点)

臨海部の工業化が進む中、港湾施設の整備が課題となり、大正期からたびたび計画と頓挫が繰り返されてきた。本格的な港湾開発が実施されるのは昭和初期のこと。「京浜工業地帯」の埋立事業を手掛けた実績を持つ「浅野財閥」が1926(大正15)年に尼崎市から大庄村(現・尼崎市大庄地区)、鳴尾村(現・西宮市)にかけての埋立事業の認可を兵庫県に申請、1929(昭和4)年に「尼崎築港株式会社」を設立し、翌年着工した。写真は東浜町、当時の「阪神電鉄 東浜発電所」付近より南を望んだもので、1934(昭和9)年前後の撮影と思われる。写真中央奥付近では「尼崎築港株式会社」による埋立て・岸壁の造成(次に掲載の計画図の第5区)が計画されていたが、実際には行われなかった。写真右手奥に見える3本の煙突は「関西共同火力発電 尼崎発電所」で、この場所は埋立地の第3区となる。写真左手の工場は「大阪曹達(現・大阪ソーダ) 尼崎工場」(1936(昭和11)年竣工)で、現在も同じ場所で操業している。1940(昭和15)年末までには、ほぼ今日の「尼崎港」の輪郭が形成され、1万トン級以上の船舶が直接接岸できる工業港となった。【画像は1934(昭和9)年前後】

1954(昭和29)年には通商・貿易を認められた開港場の指定を受け、現在は「尼崎西宮芦屋港」の一部として兵庫県が管理している。写真は東浜町付近から南を撮影。右奥に「関西共同火力発電 尼崎発電所」跡地にあったゴルフ練習場(2024(令和6)年閉鎖)のネット部分が見える。【画像は2022(令和4)年】

地図は『尼崎築港株式會社梗概』(1931(昭和6)年発行)に掲載されている『尼崎築港平面図』の一部。第1~7区まで計画されていたことがわかる。【図は1931(昭和6)年発行】

「尼崎築港」の埋立地に建設された「関西共同火力発電 尼崎発電所」 MAP __

1931(昭和6)年、「日本電力」「大同電力」「宇治川電気」「京都電灯」の4電力会社が共同出資し「関西共同火力発電」を設立、同年「尼崎築港」の埋立地(第3区)を取得した。翌年、「尼崎発電所(尼崎第一発電所)」の建設に着手、1934(昭和9)年に3号発電機まで、1936(昭和11)年に6号機まで完成となった。さらに第二期計画も進められ、1939(昭和14)年、南側に隣接して「尼崎第二発電所」が完成となったが、同年、電力統制のため設立された「日本発送電」に全ての設備が移管された。【画像は昭和戦前期】

戦中・戦後も発電は続けられ、1951(昭和26)年に「関西電力」へ移管された。1974(昭和49)年、老朽化のため「第一発電所」が、1976(昭和51)年には「第二発電所」も廃止された。「第一発電所」の跡地は「関西電力グループ」のゴルフ練習場(写真)となっていたが2024(令和6)年に閉鎖された。現在「第二発電所」の跡地は物流倉庫などになっている。【画像は2022(令和4)年】


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