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鉄道沿線の住宅地開発

工業都市が形成されると、尼崎では人口も増加し、新たな住宅地の需要が高まっていった。阪神・阪急電鉄の沿線で「塚口住宅地」や「阪急 園田住宅地」「阪急 武庫之荘住宅地」などが開発されたほか、新しい国道や自動車専用道路も整備された。


阪神間を直線的に結ぶ交通の大動脈「阪神国道」MAP __

大阪と尼崎、西宮を結ぶ道としては中世後期頃に形成されたと考えられている「中国街道」があったが、幅員が1~3間(約1.8~5.4m)と狭く、明治から大正期にかけて交通量が増加すると通行に支障をきたした。これを解消すべく計画されたのが「阪神国道」。1923(大正12)年に着工され、1926(昭和元)年12月25日に開通した。当初は幅員12間(約22m)となる予定だったが、阪神国道電軌(後の阪神電鉄国道線)の計画が持ち上がったため15間(約27m)に変更された。

写真は1938(昭和13)年頃の「阪神国道」の「大物陸橋」の東から西方向の撮影。「大物陸橋」は福知山線尼崎支線との立体交差として架けられていた。写真左端には「稲川橋」の欄干・橋灯が写っている。【画像は1938(昭和13)年頃】

1965(昭和40)年に「国道2号」に指定された。写真は現在の尼崎市昭和町一丁目付近から西を望んだ様子。福知山線尼崎支線は1984(昭和59)年に廃止となり、不要となった「大物陸橋」は1987(昭和62)年頃に撤去された。

「阪神国道」を走った路面電車・阪神国道線 MAP __

1925(大正14)年、「阪神国道」の建設に合わせて「阪神電気鉄道」の子会社となる「阪神国道電軌」が設立された。国道とともに工事が進められ、1927(昭和2)年に野田・東神戸間で開通。翌年には「阪神電気鉄道」に経営が移り、昭和20年代半ばに利用者がピークに達した。写真は「尼崎玉江橋停留場」付近を走る路面電車の様子。「玉江橋」の橋上に停留場があった。【画像は1933~1937(昭和8~12)年頃】

高度経済成長期に入ると自動車の普及により利用者が減少し、1974(昭和49)年に上甲子園・東神戸間が廃止、残る上甲子園・野田間も翌年廃止となった。写真は現在の「国道2号」の「玉江橋」付近。

鉄道から道路へと計画変更された「尼宝線」 MAP __

1932(昭和7)年、宝塚・西大島間の約10kmを結ぶ幅員7mの関西初となる自動車専用道路「尼宝(にほう)自動車専用道路」が完成。もともとは「阪神電気鉄道」の子会社である「宝塚尼崎電気鉄道」が、宝塚と阪神電鉄「出屋敷駅」を結ぶ鉄道計画路線だったが、軌道乗り入れなどの技術的な問題から電車事業を断念し、舗装道路に転換したものだった。画像は昭和戦前期の「尼宝(にほう)線」。【画像は昭和戦前期】

1942(昭和17)年には強制的に県道に編入された。現在の正式名称は「主要地方道尼崎宝塚線」であるが、一般には「尼宝(あまほう)線」と呼ばれる。


鉄道沿線の住宅地開発

『土地會社要覧』より「塚口土地」の経営地略図

図は『土地會社要覧』より「塚口土地」の経営地略図
【図は1921(大正10)年発行】

明治末期から大正初期にかけて、工業都市化する尼崎では人口が増加。その結果、過密化による家賃の高騰や、小学校での教室不足など様々な問題が生じ、郊外の新たな住宅地需要が高まっていった。

新たな住宅地を開発する場合、地元住民や民間事業者が主体となり、組合や共同施行の土地区画整理事業として整備されることも多かった。地元住民の組合によって実施された例としては、「立花駅」周辺で進められた土地区画整理事業が挙げられる。当時の立花村の地元関係者は、1931(昭和6)年頃より、省線(現・JR)東海道線の新駅の誘致運動を行い、1933(昭和8)年頃に「立花駅」の設置が決まると、駅を中心とする放射状の街路などの特長をもつ「橘土地区画整理事業」を行った。「立花駅」は1934(昭和9)年に開業、区画整理の工事は翌年に完了した。 MAP __(橘土地区画整理事業地)

「塚口土地経営地」の現在の様子

「塚口土地経営地」の現在の様子。写真中央が駅前から延びる道路で、格子状の区画と斜めに交わる。この駅に近い交差点には銀行・不動産店が多く立地している。

阪急沿線の住宅地開発は、民間事業者や鉄道事業者が主体となって進められた。1920(大正9)年の神戸本線開通と同時に設けられた「塚口駅」北西の住宅地開発は「塚口土地」という民間事業者によって進められている。 MAP __(塚口土地経営地)

「阪急 武庫之荘住宅地」

「阪急 武庫之荘住宅地」【画像は昭和10年代】

その後、1936(昭和11)年に「園田駅」、1937(昭和12)年に「武庫之荘駅」が新設されると、駅開設に合わせ、鉄道事業者である「阪神急行電鉄」と地元住民の共同施行により住宅地開発が行われた。 MAP __(阪急 園田住宅地)MAP __(阪急 武庫之荘住宅地)

開発以前の阪急沿線の多くは田畑が広がる農村地帯で、営農意欲の高い農家が多く、用地買収は容易ではなかったという。しかし「阪急 武庫之荘住宅地」となった「武庫之荘駅」北西の一画は低湿な土地で耕作条件が悪いなど、農業経営上不利な条件を持つ開発予定地が多く、買収が実現。こうして田園地帯は近代的な住宅地となっていった。



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