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船橋の沿岸部の産業

船橋は古くから漁業が盛んな地で、江戸時代には徳川家の「御菜浦(おさいうら)」でもあった。明治期になると、津田沼・船橋の沿岸には塩田が開かれ、政府の試験場も置かれた。鉄道が開通すると、海水浴や潮干狩り客も訪れるようになり、塩田が廃止されると跡地には割烹旅館や遊園地が造られ賑わうようになった。


船橋の漁業 MAP __

船橋は古くから漁業が盛んな地で、江戸期には徳川家の「御菜浦」として、魚や貝を献上していた。写真は1958(昭和33)年頃の「海老川」河口付近の様子。【画像は1958(昭和33)年頃】

現在では、スズキやコノシロなどの魚類が水揚げされるほか、残された貴重な干潟「三番瀬」で、海苔養殖やアサリ・ホンビノスガイなどの貝類の漁が行われている。写真は現在の「船橋漁港」北側の「海老川」沿い。

明治期に開かれた塩田

船橋の海岸には明治初期~中期にかけて4か所塩田が開かれた。その一つ、1880(明治13)年頃に海軍少将の仁礼(にれ)景範が開発させた塩田は、仁礼が東京の三田に住んでいたことから「三田浜(みたはま)塩田」と呼ばれた。その後、明治後期と大正期に所有者が変わり、1929(昭和4)年に塩田整理の対象になり廃止された。写真は大正期頃の撮影。塩田の跡地には「三田浜楽園」が開業した。 MAP __【画像は大正期頃】

「谷津塩田」は1891(明治24)年頃に造られ、1899(明治32)年から1911(明治44)年まで、政府によって製塩技術の試験を行う「塩業調査所津田沼試験場」(写真)も置かれた。試験場跡地は後に「谷津遊園」の一部となった。「谷津塩田」は1911(明治44)年と1917(大正6)年の暴風雨による高潮のため壊滅。塩田の跡地は主に現在の習志野市谷津三丁目と「谷津干潟」一帯となっている。 MAP __【画像は明治後期】

戦前の「船橋町海水浴場」 MAP __

写真は大正期から昭和初期の船橋の海水浴場。正確な場所は不明であるが、当時の「海老川」河口付近(現在の船橋市宮本三丁目付近)と思われる。【画像は大正期~昭和初期】

現在の船橋市宮本三丁目付近。写真に見える歩行者用の「浜町橋」は、「船橋ヘルスセンター」ができた昭和30年代頃に「大神宮下駅」から向かう道の橋として設置され、1999(平成11)年に現在の橋に架け替えられた。

約1,800坪の海水プールもあった「三田浜楽園」 MAP __

1929(昭和4)年に「三田浜塩田」は廃止となるが、3番目の所有者はこの前々年に割烹旅館を創業、行楽地「三田浜楽園」として発展させた。総面積約4万坪、娯楽・玉突・児童遊戯・野球場などの設備や動物を飼養する所があり、特に約1,800坪の海水プールがあったため、夏季に地方や東京から来遊する人たちが非常に多かったという。写真は釣り堀と割烹旅館「三田浜楽園」。川端康成が1935(昭和10)年頃に逗留したゆかりの宿でもあった。【画像は昭和初期】

「三田浜楽園」は2006(平成18)年に廃業し、現在は高層マンション(写真奥)になっている。隣接地には1921(大正10)年に「三田浜塩田」の2番目の所有者の子息が創業した「割烹旅館 玉川」があった。建物は国登録有形文化財で、太宰治が1935(昭和10)年に逗留した宿としても知られていたが、2020(令和2)年に廃業となり解体された。写真は2019(平成31)年撮影の「割烹旅館 玉川」。【画像は2019(平成31)年】

1951(昭和26)年の鳥瞰図に描かれた船橋市内の観光地

1951(昭和26)年に「船橋市役所」と「船橋市観光協会」が発行したパンフレット『PARADISE FUNABASHI』には、市内に位置する当時の観光地が強調され描かれている。戦前からある施設が多く見られるが、戦後に誕生した「船橋競馬場」「オートレース場」も掲載されている。中央下部には移転前の「市役所」が描かれている。【図は1951(昭和26)年】


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