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江戸期からの防衛と交通の要衝


「佃島」の「住吉神社」と「佃煮」

1586(天正14)年、徳川家康が現在の兵庫県川西市にあった「多田院」(現「多田神社」)に参詣の折、田蓑(たみの)村(現・大阪市西淀川区佃町)の漁師が「神崎川」の渡船を務めた。その際、家康は「住吉三神」を祀る「田蓑嶋神社」(現「田蓑神社」)を参拝、漁業権など特別の褒美を与えたほか、田蓑村の名称を佃村へ改めたという。1590(天正18)年、家康の「関東入国」に際し、「田蓑嶋神社」宮司の弟と33人の佃村の漁師も江戸に移り住んだ。漁師らは、寛永年間(1624~1645年)に「鉄砲洲」の先にあった三角州を幕府より拝領、築島工事を行い1645(正保2)年に完成。出身地から「佃島」と命名、翌年、その一部に社殿を造営し「住吉明神」(現「住吉神社」)として「田蓑嶋神社」の分霊(「住吉三神」、神功皇后、徳川家康)を祀った。

江戸期の「佃島」は「江戸湊」の入口に位置していたため、「住吉明神」は海運業や各問屋組合など、多くの人々から海上安全の守護神として信仰を集めた。また築島当初から「佃島」への渡船も設けられ、のちに名所としても賑わうようになり、「佃島」を題材にした落語や錦絵などの文芸作品も多数誕生した。

写真は1906(明治39)年の例祭の様子。
MAP __【画像は1906(明治39)年】

写真は現在の「住吉神社」。この社殿は1870(明治3)年に完成したもので、震災、戦災での災禍も免れている。明治期以降は月島一帯の埋立てにより氏子地域が拡大。現在では中央区の佃、月島、勝どき、晴海、豊海町が氏子地域となっている。

「佃島」の漁師は江戸近辺での漁業の特権を与えられ、毎年11月から3月までの期間は白魚を徳川将軍へ献上していた。小さすぎて献上・出荷できない魚は、塩辛く煮込んで自家用の保存食としていた。当初は塩煮であったが、その後、下総国(現・千葉県)野田・銚子産の醤油が入ってくるようになると醤油煮に代わり、「佃煮」と命名され江戸市中で売り出され人気に。参勤交代で江戸を訪れた大名や武士も土産として各地に持ち帰り、全国に広まったといわれる。写真は1931(昭和6)年頃の佃煮店周辺の様子。
MAP __(撮影地点)【画像は1931(昭和6)年頃】

現在も佃には江戸期創業の佃煮店が3店残っている。写真右の「佃源 田中屋」は1843(天保14)年の創業。その3軒隣にある「天安本店」は1837(天保8)年の創業。正面奥にある「丸久佃煮店」は1859(安政6)年の創業となっている。

江戸期の「石川島」

のちの「佃島」の北には、もう一つ、三角州として発達した島「鎧(よろい)島」があった。江戸初期の1626(寛永3)年、この島を旗本の石川八左衛門政次が徳川家光から拝領し、屋敷を構えたことから「石川島」の名がついた。政次は幕府の船舶の管理と海上運輸を掌った「船手頭」を務め、「江戸湊」の防衛にあたった。図は江戸前期、1684(貞享元)年発行の『ゑ入江戸大絵図』の一部。図の右が北方向で、右に向かう水路が現在の「隅田川」。石川又四郎と記載のある島が「石川島」で、その左の田の字型に道のある島が「佃島」。【図は1684(貞享元)年】

1790(寛政2)年、「石川島」の南側に「人足寄場」(無宿人などの更生施設)が設けられた。これは「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」の長谷川平蔵(『鬼平犯科帳』のモデル)の進言によるものであった。幕末期の1866(慶応2)年、人足寄場奉行の清水純畸(じゅんき)は、寄場の一部に六角二層の常夜灯を築いた。付近を航行する船舶のためのもので、人足の「油絞り」で得た益金と、人足の労役により建設された。図は明治初期に歌川広重(三代目)により描かれた『東京明細図会 佃島灯明台下汐干』。【図は明治初期】

「人足寄場」は、「明治維新」後の1870(明治3)年に「佃島徒場」(現在の刑務所に相当)となり、数度の改称を経て1877(明治10)年に「石川島監獄署」となった。その後、1895(明治28)年に巣鴨へ移転した(翌々年「巣鴨監獄」へ改称)。写真は「佃公園」のモニュメントとして1989(平成元)年に整備された「石川島灯台跡」で、灯台の下は公衆トイレとなっている。
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甲府藩の下屋敷に始まる「浜離宮」

1654(承応3)年、甲府藩主の徳川綱重(三代将軍・家光の三男)が、のちに「浜離宮」となる海岸を拝領し、海を埋立てて別邸を建設。甲府藩の下屋敷となり「甲府浜屋敷」などと呼ばれた。1709(宝永6)年、綱重の子、綱豊が六代将軍・徳川家宣となり甲府徳川家は絶家、屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれるように。幕末には、幕府の「海軍所」となり、「海軍伝習屯所」の建設に着手するが、完成には至らず「明治維新」を迎えた。1869(明治2)年、未完成だった建物が改修され、初の迎賓館となる「延遼(えんりょう)館」が誕生。翌年、園地は「宮内省」の管轄となり「浜離宮」へ改称された。「延遼館」は1883(明治16)年に「鹿鳴館」が完成するまで迎賓館として使用されたのち、1889(明治22)年に取り壊された。

写真は明治後期の「浜離宮」の「大手門」。
MAP __【画像は明治後期】

「浜離宮」は「関東大震災」や「太平洋戦争」の戦災により、建物や庭園を大きく損傷した。1945(昭和20)年に東京都に下賜され、翌年「都立浜離宮恩賜庭園」として公開された。写真は現在の「大手門口」。

写真は1949(昭和24)年に「都立浜離宮恩賜庭園」へ移築された「安乗埼灯台」。元は、1876(明治9)年、三重県志摩の「安乗埼」に建設された木造の洋式灯台であった。
MAP __(浜離宮恩賜庭園の灯台跡)【画像は1949(昭和24)年~1955(昭和30)年】

「安乗埼灯台」は1955(昭和30)年に「横浜港」へ移築され、さらに1973(昭和48)年には「船の科学館」へ移築され、現在も「屋外展示場」(写真)で「旧安乗埼灯台」として展示されている。
MAP __(旧安乗埼灯台)

江戸末期に建設された「台場」 MAP __

江戸末期の1853(嘉永6)年、「ペリー艦隊」が来航し、幕府に開国を要求した。これを受け、幕府は江戸防衛のため、品川沖の海上に洋式の砲台「台場」を11基建設することとした。翌1854(嘉永7)年、「ペリー艦隊」が再び来航するが、「台場」の一部が完成していたことから江戸ではなく横浜への上陸となった。幕府はその後も建設を続け、最終的には8基の「台場」が完成した。

1875(明治8)年、海上にあった「台場」は「陸軍省」の所管となった。「第三台場」と「第六台場」は1915(大正4)年に東京市に払い下げられ、1926(大正15)年に「品川台場」として国の史跡に指定。「第三台場」は史跡公園として整備され、1928(昭和3)年に「台場公園」として開園した。写真は「台場公園」が開園した頃の撮影。【画像は昭和初期】

1940(昭和15)年に開催予定だった「日本万国博覧会」では、「台場公園」も会場の一つとして計画されていた。写真は「レインボーブリッジ」から望む現在の「台場公園」。「台場公園」の南側の埋立て地「13号地」は「お台場」と呼ばれ、東京の副都心の一つ「東京臨海副都心」の一角として整備されている。


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※本ページでは現在の中央区築地~晴海一帯、江東区豊洲~青海一帯、港区台場一帯、及び品川区東八潮一帯を対象としている。

※本ページでは明治期の月島の埋立て地「一号地」~「四号地」を「月島一号地」~「月島四号地」、大正期の「第三期隅田川口改良工事」以降の「第4号埋立地」~を「4号地」~と表記している。



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