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江戸期までの所沢


古くからの交通の要衝MAP __(撮影地点)

現在の所沢市域には古代に「東山道武蔵路」、中世に「鎌倉街道」、江戸期に「江戸道」(現「所沢街道」)が通るなど、古くから交通の要衝であった。鎌倉時代、鎌倉に幕府が開かれ、東国の各地から鎌倉へ向かう道「鎌倉街道」が発達、所沢には上州方面と鎌倉を結ぶ「上道(かみつみち)」が通っていた。所沢の集落は「鎌倉街道」の宿場のような役目を果たしていたといわれる。写真は1967(昭和42)年撮影の「長久寺」の西側を通る旧「鎌倉街道」の坂道。【画像は1967(昭和42)年】

写真は同地点付近の現在の様子。現在の所沢市域には、旧「鎌倉街道 上道」の道筋は主に3本、「入間川道」「堀兼道」「小手指(こてさし)道」があり、この写真のあたりは「入間川道」の一部となる。

「鎌倉街道」沿いで行われた「小手指ヶ原の戦い」 MAP __

1333(元弘3/正慶2)年、上州を本拠地とする新田義貞が鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、新田軍は「鎌倉街道」を南下、幕府軍とはじめて激突したのが「小手指ヶ原(こてさしがはら)」で、鎌倉幕府倒幕のさきがけとなる合戦となった。1935(昭和10)年、旧「鎌倉街道 上道」の「小手指道」沿いに「小手指原古戦場碑」(写真)が建立された。【画像は1957(昭和32)年頃】

写真は1969(昭和44)年撮影の「小手指原古戦場碑」と「小手指道」。【画像は1969(昭和44)年】

写真は現在の様子で、碑の向きは変更されている。この場所の西側(写真では左側)に新田義貞が源氏の白旗を掲げたという伝承が残る「白旗塚」がある。

行基作といわれる「山口観音」 MAP __

「金乗院(こんじょういん)」は西武狭山線「西武球場前駅」のそばにある弘法大師の開基と伝わる歴史ある寺院。本尊は行基作といわれる千手観音像で「山口観音」と呼ばれる。古くから観音信仰の霊場として知られ、新田義貞は、鎌倉を攻めた際に戦勝を祈願したという。現在の本堂は江戸中期の宝暦年間(1751~1764年)に再建されたもの。写真は1930(昭和5)年頃の撮影。【画像は1930(昭和5)年頃】

写真は現在の様子。

中世の山城「根古屋城」 MAP __

現在の所沢市域付近は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士団である村山党から分かれた山口氏などの本拠地となり、戦国時代には北条氏の支配下に置かれた。「根古屋城」は室町時代に山口氏により築造され、戦国時代に北条氏により整備された山城。写真は昭和初期、「山口貯水池」完成前に撮影された「根古屋城跡」(写真中央の丘陵の部分)。郭・土塁・空堀などの遺構が残り、1942(昭和17)年に埼玉県指定文化財となった。【画像は昭和初期】

現在は「山口貯水池」区域内に属しているため立ち入ることはできない。写真は「狭山富士」山頂から「山口貯水池」を望んでおり、対岸左手付近が「根古屋城跡」となる。所沢市内の城跡としては、「山口城跡」「滝の城跡」も埼玉県指定文化財となっている。

江戸期に始まる所沢の市

江戸に幕府が開かれると、江戸へ通じる「江戸道」(現「所沢街道」)沿いに街の中心が移った。所沢の市(いち)が成立した時期は明らかでないが、1639(寛永16)年の文書が最初の記録として残っている。当初は、月3回、3のつく日に開かれていたが、文化年間(1804~1818年)に月6回、3と8のつく日に開かれる「三八(さんぱち)の市」に拡大された。地図は1924(大正13)年に発行された『大日本職業別明細図』の所沢町部分。図の中央部が「三八の市」で発展した古くからの商業地となる。【図は1924(大正13)年】

写真は1916(大正5)年頃の街並み。電灯は1913(大正2)年に供給が開始されており、通りの右側には電柱が見える。 MAP __【画像は1916(大正5)年頃】

写真は現在の同地点付近の様子。交差点を右へ入ると「薬王寺」へ向かう道(かつては「薬王寺横丁」と呼ばれていた)となる。

写真は昭和10年代の撮影。左に「柏屋陶器店」の幟が見える。 MAP __【画像は昭和10年代】

戦後、この一帯は「所沢銀座商店街」として賑わった。現在は高層マンションも多いエリアとなっている。


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