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江戸期までの戸塚界隈

古くからのこの一帯の地名である「戸塚」は、古墳に由来するといわれる。また、「神田川」に架かる「面影橋」の橋名の由来にも、平安時代をはじめ、複数の時代の伝説が残り、歴史のロマンが感じられる地となっている。


「神田川」に架かる「面影橋」 MAP __

「神田川」に架かる「面影橋」はかつて「俤(おもかげ)の橋」とも表記され、また「姿見橋」とも呼ばれた。「面影橋」を通る道は古くからあり、鎌倉時代には鎌倉と下野方面を結ぶ主要道「鎌倉街道 中道(なかつみち)」であったという。橋名の由来には諸説あり、「平安時代の歌人、在原業平が水面に姿を映したため」「戦国時代の武将の娘、於戸姫(おとひめ)が、数々の悲劇に嘆き、川に身を投げた時に詠った和歌から名付けられた」「三代将軍・徳川家光が鷹狩の鷹の姿を見つけて名付けた」などの説がある。「姿見橋」は「面影橋」の別名と考えられているが、江戸後期の一部書籍には、北側の用水堀にかかる別の橋が「姿見橋」または「面影橋」であると記されているものがあるなど、混乱が見られる。図は歌川広重が1857(安政4)年に描いた『名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場』。【図は1857(安政4)年】

写真は明治後期の「面影橋」。橋の南西から東方面を撮影している。【画像は明治後期】

「面影橋」は都電荒川線の停留場名になっていることもあり、よく知られた橋名となっている。写真の左が「神田川」で、川に沿って桜並木が植えられており、春には桜の名所となる。写真中央付近から左方向に架かる橋が「面影橋」。右の太い通りは「新目白通り」で、通りの中央に都電荒川線「面影橋停留場」がある。

「水稲荷神社」と「冨塚古墳」「高田富士」

現在の「早稲田大学」の「9号館」付近には、かつて「水稲荷神社」があり、その境内には「冨塚古墳」「高田富士」があった。このあたりは古墳(塚)が多く、「十塚」と呼ばれるようになり、「冨塚」「戸塚」の地名の由来となったという説もある。「冨塚古墳」は前方後円墳だったといわれ、江戸中期の1780(安永9)年、この前方部分を利用して、高さ約10m、江戸市中で最大最古となる富士塚「高田富士」が築かれた。図は1861(文久元)年に出版された『絵本江戸土産 第八編』で歌川重宣が描いた「高田富士」。
MAP __【図は1861(文久元)年】

写真は1911(明治44)年頃の「高田富士」。「水稲荷神社」は941(天慶4)年に勧請されたといわれ、かつては「冨塚稲荷」と呼ばれた古社。江戸前期の1702(元禄15)年、神木の根元より霊水が湧き出し、これが眼病に利くとして評判となったことから「水稲荷神社」へ改名となった。【画像は1911(明治44)年頃】

「早稲田大学」は、キャンパスの拡張に伴い、「甘泉園(かんせんえん)」付近に所有していた土地と、「水稲荷神社」の敷地を交換。「水稲荷神社」は1963(昭和38)年に現在地へ移転、その後、旧境内にあった「冨塚古墳」「高田富士」も、「水稲荷神社」の新境内へ移設された。写真は現在の「水稲荷神社」境内にある「冨塚古墳」。移転前の地となる「早稲田大学」の「9号館」の西側には「富塚跡」の説明板が設置されている。
MAP __(現在の冨塚古墳) MAP __(現在の高田富士) MAP __(富塚跡)


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