「砂川闘争」で抗議する地元住民と頭上を飛ぶ米軍輸送機。
【画像は1956(昭和31)年頃】
米軍「立川基地」は、1950(昭和25)年に始まる「朝鮮戦争」では、米軍の極東最大の輸送基地となった。米兵を相手とする商売で好景気となる一方、米兵の市民への暴力や飛行機の騒音が問題となっていた。
1955(昭和30)年に「立川基地拡張計画案」が通達されると、拡張に反対する住民運動(「砂川闘争」)が起こった。砂川町議会も全会一致で反対を決議。同年、土地収用のための測量に際し、反対する地元の住民と武装警官隊の間で激しい衝突が発生した。その後、1968(昭和43)年に基地拡張計画の中止が発表され、翌年に米軍による全ての飛行活動は停止、1972(昭和47)年に「陸上自衛隊東部方面航空隊本部」が移駐し日米共同使用されたのち、1977(昭和52)年に米軍の「立川基地」は全面返還された。
米軍と住民との融和を目的に、基地開放などのイベントも行われた。
【画像は1959~60(昭和34~35)年頃】
返還地のうち、東部地区は「立川防災合同庁舎」「陸上自衛隊立川駐屯地」「海上保安庁」「警視庁」「東京消防庁」などの施設からなる「立川広域防災基地」として整備され、1995(平成7)年に全施設が完成した。駅に近い地区は商業・業務施設からなる「ファーレ立川」、その北側には「立川市役所」の新庁舎、「多摩モノレール」の「立飛車両基地」、「IKEA立川」、「国立極地研究所」「国文学研究資料館」などの研究施設、中央部には「国営昭和記念公園」が誕生している。東側の一部は所有者の「立飛企業」(現「立飛ホールディングス」)などに返還され、現在は物流倉庫・配送センターなどのほか、「ららぽーと立川立飛」、「アリーナ立川立飛」などの敷地としても利用されている。 MAP __(立川広域防災基地) MAP __(立川市役所)