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住吉・御影周辺の邸宅地としての発展

1950(昭和25)年、住吉村・御影町・魚崎村・本庄村・本山村の五ヶ町村が神戸市に編入され、現在の東灘区が誕生した。特に旧・御影町や旧・住吉村一帯は高級住宅地として知られ、関西の財界人や有力者が豪華な邸宅や別邸を構えた。現在も一部の邸宅のほか、当時整備された施設が様々な形で残っている。


「西本願寺」法主・大谷光瑞氏の別邸「二楽荘」MAP __(本館跡地)

1909(明治42)年、本山村(現・東灘区本山町岡本)に「西本願寺」二十二世法主・大谷光瑞(こうずい)氏の別邸「二楽荘」の本館が竣工した。通称「岡本山」と呼ばれる総面積約24万6千坪の広大な傾斜地を造成し、山頂・中段・山麓に各施設が置かれ、日本初ともいわれるケーブルカーも複数設置された。

光瑞氏は1902(明治35)年に中央アジア・チベットなどシルクロードの仏教遺跡の調査や発掘(のちに「大谷探検隊」と呼ばれる)を開始しており、「二楽荘」内には各地域で発掘・収集した貴重な品も収蔵された。また、山頂に置かれた私設の測候所では天文や天候の観測が行われたほか、理科研究所では水力・風力などの小規模発電、園芸部では中央アジアをはじめとする海外の植物・農産物の栽培など、光瑞氏の知見を基に様々な研究も行われた。1911(明治44)年には、山麓(のち山上にも増築)に徒弟教育のための私塾「武庫中学」を開校、寄宿舎も設けられ5学年で450名ともいわれる学生の教育を行った。

しかし、1914(大正3)年、光瑞氏は大谷家の巨額の負債や「本願寺疑獄事件」の責任を取り法主を辞任、「武庫中学」も廃止となり、翌々年「二楽荘」の建物と収蔵物は、同村内の「住吉川」沿いに邸宅を構えていた実業家・久原房之助氏へ売却された。仏教遺跡に関連する収蔵物の多くは、久原氏が「朝鮮総督府博物館」へ寄贈しており、現在は韓国の「国立中央博物館」が約1,500点からなる「大谷コレクション」として引き継いでいる。

山麓の旧「武庫中学」講堂は、1919(大正8)年、久原氏が資金提供で設立にかかわった「甲南学園」の旧制「甲南中学校」の第一回入学式にも使われ、「武庫中学」の古材も「甲南学園」の仮校舎に使用された。同年、久原氏は「甲南学園」へ「二楽荘」の寄付を申し出て、本館は図書館として使用される予定となったが、翌年「第一次世界大戦」からの「戦後恐慌」で大打撃を受け、「二楽荘」も手放すことになり寄付は実現しなかった。

写真は1920(大正9)年頃の「二楽荘」の本館。1932(昭和7)年に原因不明の火災で焼失した。【画像は1920(大正9)年頃】

写真は明治後期~大正初期の「二楽荘」本館前の洋風庭園。【画像は明治後期~大正初期】

写真は西岡本七丁目(標高約120m)から「六甲アイランド」方面を望む。「二楽荘」本館跡地から南西に約450m、標高は約70m低い場所となる。現在、「二楽荘」跡地一帯は宗教団体の所有地となっており、立ち入ることはできない。

明治末期の幼稚園開設に始まる「甲南学園」

「甲南学園」の歴史は、住吉にある「甲南幼稚園」から始まった。この地に移り住んだ関西の実業家らの子女の教育を目的として、1911(明治44)年に幼稚園、1912(明治45)年に小学校が設立された。【画像は1941(昭和16)年頃】

写真は現在の「甲南小学校」。
MAP __(甲南小学校)

1919(大正8)年に旧制「甲南中学校」、1923(大正12)年に旧制「甲南高等学校」が開校し、大学・高等学校・中学校からなる現在の「学校法人 甲南学園」の源流となった。写真は1923(大正12)年頃の旧制「甲南高等学校」。【画像は1923(大正12)年頃】

写真は現在の「甲南大学」1号館。現在、幼稚園・小学校は、別法人として運営しているが、それぞれが創立者である平生釟三郎氏の理念と遺志を現代へ受け継いでいる。
MAP __(甲南大学)

銀行家・山口吉郎兵衛氏の邸宅は「滴翠美術館」に MAP __

「山口財閥」の四代目・山口吉郎兵衛氏は、三代目が設立した「第百四十八国立銀行」を引き継ぎ、16歳で「山口銀行」を設立し頭取を務め、その後、多くの銀行・保険会社の頭取・役員を務め大阪を代表する銀行家となった。1933(昭和8)年には、精道村芦屋(現・芦屋市)に安井武雄氏設計による本邸を設けた。写真は建築中の様子。この建物は、現在ではモダニズム建築として評価されている。【画像は昭和前期】

四代目・山口吉郎兵衛氏は美術品蒐集家でもあり、1933(昭和8)年に「山口銀行」が合併により「三和銀行」(現「三菱UFJ銀行」の前身の一つ)となったのを機に財界を離れ、1951(昭和26)年に亡くなるまで、陶器、人形、羽子板、カルタといった美術品の研究と収集に没頭した。これらの古美術品コレクションは2,500点にも及び、1964(昭和39)年、邸宅の一部を改装し山口吉郎兵衛氏の雅号である「滴翠(てきすい)」を冠する「滴翠美術館」が開館した。


住吉の地域コミュニティ 「観音林倶楽部」と「灘購買組合」

現在の「住吉学園」

1949(昭和24)年、旧「観音林倶楽部」の建物は「財団法人住吉学園」に無償譲渡された。現在「一般財団法人住吉学園」は、旧・住吉村(1950(昭和25)年に神戸市へ編入)の村有財産の管理や、旧村内に位置する教育施設への助成、奨学金の給付などを行っている。写真は現在の「住吉学園」。
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住吉周辺には官営鉄道に続いて、1905(明治38)年に阪神本線が開通した。これと同時期に、のちの「日本住宅株式会社」社長の阿部元太郎氏と「住友銀行」初代支配人の田辺貞吉氏が、住吉村の観音林、反高林(たんたかばやし)一帯、約1万坪の山林を村から借り受けた。上下水道や井戸を整備し、住宅地として開発して以降、この地には財界人たちが次々と移り住み、高級住宅地として発展する。そんな中、住民たちによって子女の教育のための施設が計画され、「神戸商業学校」校長の経験があった平生釟三郎氏などが創立に携わり、1911(明治44)年に「甲南幼稚園」が、翌年には「甲南小学校」が開校した。

1912(明治45)年には、住民同士の交流やまちづくりを考える場として、日本初の地域コミュニティともいわれる「観音林倶楽部」が設立される。「観音林倶楽部」の会員は、それぞれ私財を投じて「甲南学園」などの教育事業や「灘購買組合」(現「生活協同組合コープこうべ」)といった組織も展開していった。

新築された「灘購買組合」本部前での様子

新築された「灘購買組合」本部前での様子。
【画像は1933(昭和8)年】

「灘購買組合」は、1921(大正10)年に那須善治氏により創設された。「社会事業にお金を投資したい」と考えていた那須氏は、平生釟三郎氏に相談し、当時「神戸購買組合」設立に尽力していた賀川豊彦氏を紹介される。これをきっかけに「観音林倶楽部」で話し合いが行われ、「灘購買組合」は設立された。組合は「観音林倶楽部」の会員が中心であったが、当時周辺より高かった住吉村の物価を下げ、元来の住民にも良い結果となったという。「灘購買組合」は1948(昭和23)年に「灘生活協同組合」となり、1962(昭和37)年に「神戸購買組合」から発展した「神戸生活協同組合」と合併し「灘神戸生活協同組合」となり、1991(平成3)年に「生活協同組合コープこうべ」へ改称している。

「生活協同組合コープこうべ」の本部

JR「住吉駅」駅前にある「生活協同組合コープこうべ」の本部。
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「灘購買組合」の本部は設立当初から国鉄(現・JR)「住吉駅」周辺に置かれてきたが戦時中の空襲で焼失、1946(昭和21)年、駅前の焼け残ったビルへ移転した。1961(昭和36)年に建て替えられ、合併後も本部として使用され続けたが、1995(平成7)年の「阪神・淡路大震災」で倒壊。2007(平成19)年に元の場所に本部が再建された。



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