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「登戸研究所」と「日本高等拓植学校」

小田急線開通後の昭和初期、沿線には学校・研究所などが立地するようになった。現在の「明治大学 生田キャンパス」の場所には、陸軍の秘密戦のための研究所、さらにその前には、ブラジル移民の「アマゾン開拓」指導者を養成するための学校があった。


「登戸研究所」と「明治大学 生田キャンパス」 MAP __(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

秘密戦(防諜・諜報・謀略・宣伝)の兵器・資材の研究・開発が行われた、日本陸軍の「登戸研究所」は、「日本高等拓植学校」跡の土地・建物へ、1937(昭和12)年に移転してきた。同年、「日中戦争」が始まり、陸軍では秘密戦の強化が求められた時代でもあった。写真は1944(昭和19)年、三笠宮親王殿下(昭和天皇の弟)による「登戸研究所」への視察の様子。後ろの建物は「登戸研究所」の「本館」で、「日本高等拓植学校」時代は校舎だった。【画像は1944(昭和19)年】

「風船爆弾」「電波兵器」「生物化学兵器」「スパイ用品」などが研究されたほか、主に中国大陸で展開された経済謀略活動のための偽札の製造も行われたが、終戦とともに閉鎖された。正式名称は「第九陸軍技術研究所」(終戦時)であったが、通称・秘匿名として「登戸研究所」と呼ばれていた。現在、「本館」前に植えられていたヒマラヤ杉は大きく成長している。

終戦後、跡地の一部は「慶應義塾大学」の仮校舎として使用されたのち、「明治大学」が農学部設置のため、1950(昭和25)年に土地を購入、翌年「生田キャンパス」が誕生した。写真は1960年代の「生田キャンパス」で、まだ旧「登戸研究所」の建物群が残っている。右上の建物は「日本高等拓植学校」時代から引き継がれてきた旧「本館」。【画像は1960年代】

現在の「明治大学生田キャンパス図書館」前の通り。

2010(平成22)年、「明治大学 生田キャンパス」内に開館した「明治大学平和教育登戸研究所資料館」は、「登戸研究所」が行ったことを記録にとどめ、歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、戦争遺跡として保存・活用するための施設。資料館の建物は「登戸研究所」時代に建てられた研究棟を利用しており、キャンパス内には当時の神社・碑なども残る。

「アマゾン開拓」の指導者を養成した「日本高等拓植学校」 MAP __

日本人のブラジル移民は明治末期から行われ、1920年代前半からは国策として推奨された。昭和初期、アマゾナス州が無償譲与する州有地で「アマゾン開拓」が行われることとなり、衆議院議員の上塚司により調査団が派遣され、土地の調査、選定が行われた。上塚は1930(昭和5)年、指導者育成のため、東京の「国士舘」内に「国士舘高等拓植学校」を設立、卒業生をアマゾンに送ったが、「国士舘」創立者の柴田梵天らと意見が合わなくなり袂を分かち、1932(昭和7)年に「日本高等拓植学校」を生田村と稲田村にまたがる地(現・川崎市多摩区東三田一丁目)に開校した。写真は開校当初の撮影。【画像は1932(昭和7)年】

写真は1932(昭和7)年、当時の大蔵大臣、高橋是清が訪問した際、実習農場で芋掘りをしている様子。左端の眼鏡をかけた人物が校長の上塚司。「日本高等拓植学校」は、1937(昭和12)年卒業の7回生までを送り出したあと閉鎖され、土地・建物は国に売却された。【画像は1932(昭和7)年】


「生田緑地」の誕生と現在 MAP __(生田緑地西口展望広場)

川崎市の北西部の「多摩丘陵」の一角に位置する「生田緑地」。戦前期、このあたりはハイキングコースの一部であったほか、「向ヶ丘遊園」が無料の自然公園として開園、自然豊かな行楽地となっていた。

「太平洋戦争」の開戦の年となる1941(昭和16)年の3月、「向ヶ丘遊園」を含む一帯は「生田緑地」として、内務省により都市計画決定された。当時は防空緑地として、空襲からの避難場所や延焼遮断帯としての役割を担っていた。これにより、一帯は行政の管理下に置かれたため、戦後も市街地化・宅地化を免れ、豊かな自然が残ることとなった。

「川崎国際カントリークラブ」のクラブハウス

「川崎国際カントリークラブ」のクラブハウス。【画像は1952(昭和27)年】

「生田緑地西口展望広場」

旧クラブハウスの跡地は2017(平成29)年に「生田緑地西口展望広場」として整備された。広場入口には「川崎国際生田緑地ゴルフ場旧クラブハウス跡」の碑も建てられている。広場の後ろに見える建物は「専修大学 生田キャンパス」(1949(昭和24)年開設)の校舎。

1954(昭和29)年、「生田緑地」の一部を民間企業が借り受け、「川崎国際カントリークラブ」が営業を開始。クラブハウスは、モダニズム建築で有名な土浦亀城(かめき)の設計であった。1992(平成4)年に川崎市に返還され公営の「川崎国際生田緑地ゴルフ場」となり、クラブハウスは2013(平成25)年に建て替えられている。

「生田緑地」内には、1967(昭和42)年開園の「日本民家園」に始まり、1971(昭和46)年開館の「プラネタリウム館」(現「かわさき宙(そら)と緑の科学館」)、1999(平成11)年開館の「岡本太郎美術館」、2011(平成23)年開館の「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」など、文化施設の設置も進められてきた。

2002(平成14)年、「向ヶ丘遊園」は閉園となったが、川崎市が「ばら苑」の管理を引き継ぎ「生田緑地ばら苑」として毎年春と秋に公開。2018(平成30)年、「小田急電鉄」は「向ヶ丘遊園」跡地を「人と自然が回復しあう丘」をコンセプトとする開発計画を決定。「商業施設エリア」「温浴施設エリア」「自然体験エリア」の3つのゾーンからなる施設の整備が進められており、2023年頃に完成する予定となっている。



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