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戦前期の発展と川崎市の拡大

明治期創業の「細王舍」は大正期には全国的に知られる、この地域を代表する工場となった。昭和戦前期の小田急線の開通は、この地域の近代的な発展のきっかけの一つとなり、沿線一帯の町村は1938(昭和13)年・1939(昭和14)年に川崎市に編入された。また、市域の拡大とともに新たな水道の水源・浄水場も整備された。


小田急線の開通と「稲田登戸駅」の開業 MAP __

1927(昭和2)年、小田急線が新宿~小田原間で開通。同時に「稲田登戸駅」は「五大停車場」と呼ばれる主要駅の一つとして開業した。同年に「向ヶ丘遊園」までの「豆汽車」も開業している。写真は昭和初期の撮影。「五大停車場」の駅舎は、いずれもマンサード(腰折れ)屋根のデザインであった。【画像は昭和初期】

1955(昭和30)年に「向ヶ丘遊園駅」に改称。写真は現在の北口の駅舎。「五大停車場」として作られた駅の中で唯一、現在も開業当時の駅舎が使われている。現在、「向ヶ丘遊園駅」の北側から「登戸駅」の西側にかけての一帯で「登戸土地区画整理事業」が2026年までの予定で進められており、駅前の様子は大きく変化している。

全国に普及した農機具メーカー「細王舍」 MAP __(創業之碑)

農機具メーカーの「細王舍」は1889(明治22)年の創業で、事業の発展とともに現在の高石三丁目(写真の場所)に移り農機具の発明・改良・製作を行い、特に大正初期の足踏脱穀機、戦後には国内初の空冷エンジン搭載の小型耕耘機の製造で、全国的に知られた。その後、農業機械への大手メーカーの参入もあり、1960(昭和35)年に「小松製作所」と業務提携、その後、社名変更などを経て厚木市に移転した。【画像は昭和20~30年代】

工場の跡地にはガソリンスタンドやマンションが建つ。

工場の跡地の一画には1979(昭和54)年に建立された「細王舎 創業之碑」がある。「細王舎」の社名は、創業者夫妻の出身地、生田村細山と柿生村王禅寺の字名に由来している。

川崎市の上水道の拡張

川崎市の上水道事業は1921(大正10)年に給水が始まっているが、その後、市域拡大による人口増加と産業の発展による使用水量の伸びに対応するための拡張事業が行われ、1938(昭和13)年に「稲田水源地」を整備し、「生田浄水場」が完成した。写真は完成当時の「稲田水源地」で、「多摩川」の伏流水を取水していた。 MAP __【画像は1938(昭和13)年】

「稲田水源地」は1981(昭和56)年まで使用されていた。現在もポンプが設置されていた建物が残る。

標高約78mの丘陵上に作られた「生田浄水場(現・配水池)」。当初は浄水場もこの場所にあった。1944(昭和19)年、暫定拡張事業により丘陵の下に「生田第2浄水場」が完成、後にこちらが「生田浄水場」となった。 MAP __【画像は昭和20~30年代】

現在の「生田配水池」。かつては丘陵下の「生田浄水場」から高低差約50mをポンプで揚水していたが、再構築計画により2016(平成28)年に「生田浄水場」の水道事業の機能は廃止。「生田配水池」への送水は「神奈川県内広域水道企業団西長沢浄水場」から「潮見台配水池」経由及び「長沢浄水場」から行われるようになった。同年、「生田配水池」では遊歩道や展望広場が整備されたほか、配水池上部を活用した太陽光発電事業も開始された。


多摩区・麻生区の歴史

川崎市は1924(大正13)年に誕生した自治体で、その後「多摩川」沿いの町村を順次編入し拡大、現在の多摩区・麻生区域になる、神奈川県橘樹郡の生田村、稲田町は1938(昭和13)年、都筑郡の柿生村、岡上村はその翌年に川崎市に編入された。

柿生の地名の由来となった「禅寺丸柿」。

柿生の地名の由来となった「禅寺丸柿」。

川崎市編入までのそれぞれの町村の概略は次の通り。生田村は、1875(明治8)年に上菅生村と五反田村が合併、漢字を1文字ずつ採って「生田」となった。その後、「町村制」(1889(明治22)年・以下年号略)で、周辺の村と合併した。稲田村は「町村制」で、登戸村、菅村などが周辺の村と合併して誕生、1932(昭和7)年に稲田町となった。地名の由来は「稲毛領」の水田地帯の意。柿生村は「町村制」で、上麻生村、王禅寺村などが合併して誕生。村名の由来は日本最古の甘柿の品種といわれる「禅寺丸柿」の原産地であることから。岡上村は「町村制」で、単独で村制を施行。柿の生産を通じて柿生村との関係が強かったこともあり、1939(昭和14)年、飛び地になるが、川崎市への編入となった。

この地域が大きく変化したのは小田急線が開通した昭和戦前期。「新宿駅」~「稲田登戸駅」間が35分で結ばれるようになり、遊園地、川遊び、釣り、ハイキングなどを目的とする行楽客が多く訪れ、学校や研究所なども立地するようになった。

戦後も大学の進出があったほか、「向ヶ丘遊園」の再整備や「よみうりランド」の開園、「生田緑地」の整備など、行楽地としての発展も続いた。また、東京近郊の住宅地化が進む中、小田急線沿線でも住宅地の造成が進められ、1960(昭和35)年には大規模な「百合ヶ丘団地」が誕生した。1972(昭和47)年、川崎市は政令指定都市となり、多摩区が誕生。1974(昭和49)年に「新百合ヶ丘駅」が開業、その後、駅周辺の土地区画整理が進められ、1982(昭和57)年には行政区再編により、多摩区から麻生区が分区、駅前に区役所が設置された。



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