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「関東大震災」からの復興、渋谷区の誕生

「関東大震災」で東京の多くの街が被害を受けたなかで、渋谷を含めた山手側の街は比較的影響が少なかった。「渋谷駅」西側の「道玄坂」には、震災で被災した下町の有名店などを誘致して名店街「百軒店」が開業。また、都市に暮らす新しい層に向けた住宅「同潤会アパートメント」が渋谷周辺では青山と代官山に建設された。1932(昭和7)年にはこれまで市外だった渋谷町が東京市35区のひとつ、渋谷区となった。


渋谷町が東京市に編入され「渋谷区」が誕生

1889(明治22)年、南豊島郡の上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村などが合併して渋谷村となり、その際、赤坂区の渋谷宮益町、麻布区の麻布広尾町なども渋谷村へ編入された。明治後期には都市化も進み、1909(明治42)年に町制が施行され渋谷町となった。写真は大正期の「渋谷町役場」。
MAP __(渋谷町役場跡)【画像は大正期】

1932(昭和7)年、東京市(現・東京都23区)に周辺5郡82町村が編入され市域が拡張された。15区だった東京市は35区となるが、その新設区の一つとなる渋谷区は、豊多摩郡の渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町の区域をもって誕生した。「渋谷町役場」だった庁舎は、渋谷区誕生後も「渋谷区役所」として4年間利用された。現在、「渋谷町役場」の跡地は「渋谷区立氷川区民会館」(写真)となっている。

「渋谷区役所」は1936(昭和11)年に神宮通一丁目(現・神南一丁目)へ移転。その後、1965(昭和40)年に現在地となる宇田川町へ移転した。跡地は1968(昭和43)年に「東京電力 渋谷支社」となり、1984(昭和59)年、一画に科学館・PR施設の「電力館」が開館した。「電力館」は「東日本大震災」を受けて2011(平成23)年に閉館となり、現在その跡には「シダックス・カルチャービレッジ」が入っている。
MAP __(神南一丁目の渋谷区役所跡)

「渋谷区役所」は1965(昭和40)年より宇田川町に置かれている。2013(平成25)年、「渋谷区役所」の庁舎は「渋谷公会堂」と共に建て替えられることになり、2015(平成27)年に仮庁舎へ移転、2019(平成31)年に新庁舎(写真)が開庁、同(令和元)年に新公会堂が開館となった。
MAP __(現在の渋谷区役所)

「関東大震災」後、東京の有名店が誘致されて誕生した「百軒店」MAP __

「百軒店(ひゃっけんだな)」は、「関東大震災」後、東京が復興へ向かう1924(大正13)年に「箱根土地株式会社」(「西武グループ」の前身)が開発した街で、その名の通り100軒以上の店舗が立ち並んでいた。元は「中川伯爵邸」の土地で、1921(大正10)年頃に「箱根土地」が宅地分譲のため購入していたという。「百軒店」のオープンに先立って入場料無料の「全国物産共進会」が2ヶ月間開催され、「天賞堂」「資生堂」「山野楽器店」「三越」「西川」「精養軒」「弁松」「塩屋」など東京の有名店が誘致されたほか、京都などの物産も販売された。1925(大正14)年には映画館の「渋谷キネマ」、劇場(のち映画館)の「聚楽座」も開館した。当初誘致した店舗の多くは、銀座・浅草などの復興が進むと撤退していき、代わってカフェーをはじめとする飲食店が立ち並ぶようになり、東京有数の歓楽街へ発展していった。

写真は昭和戦後期の「百軒店」。写真の「テアトル渋谷」は前述の「渋谷キネマ」を前身として1947(昭和22)年に開業した映画館で、1968(昭和43)年に閉館となった。【画像は昭和戦後期】

「道玄坂」の途中にある現在の「しぶや百軒店」の入口。商店街の一角には、1923(大正12)年に商売繁盛の神社として宮益の地から遷座された「千代田稲荷神社」が祀られている。
MAP __(千代田稲荷神社)

「表参道」沿いにあった「同潤会青山アパートメント」 MAP __

1924(大正13)年、「関東大震災」の義捐金を元に「内務省」が「財団法人 同潤会」を設立し、東京と横浜で住宅供給を始めた。「東京帝国大学」(現「東京大学」)総長も務めた建築家の内田祥三氏が理事となり、最初は木造バラックの仮設住宅を建設し、1926(大正15)年の「中之郷アパートメント」からは、鉄筋コンクリートのアパートを次々と建てていった。その代表的な集合アパートが1927(昭和2)年に完成した「同潤会青山アパートメント」。2003(平成15)年に解体され、現在は「表参道ヒルズ」に変わっている。【画像は昭和戦前期】

「表参道ヒルズ」の東端にはアパート1棟分が「同潤館」として復元されている。

「青山女学院」跡地に建てられた「同潤会渋谷アパートメント」 MAP __

1927(昭和2)年、「関東大震災」まで「青山女学院」があった渋谷の高台(現・代官山町)に「同潤会渋谷アパートメント」が建設された。鉄筋コンクリート2・3階建ての36棟、337戸が設けられ、間取りは2Kが中心で、水道・水洗トイレ・ガス設備などがあり、公衆浴場・児童公園も設置されていた。写真は昭和戦前期の「同潤会渋谷アパートメント」。中央の建物は「商店アパートメント」として建設された「29号館」で、独身室のほか食堂・商店・娯楽室などが設けられていた。その右は独身室住棟の「30号館」。名称は昭和10年代頃から「同潤会代官山アパートメント」と呼ばれるようになったと思われる。【画像は昭和戦前期】

戦後は「ベビーブーム」の影響で子ども部屋などを増築する住民も出始め、1957(昭和32)年に住民に払い下げられたことで、これに拍車がかかった。その後、老朽化により1996(平成8)年に解体された。「同潤会代官山アパートメント」の跡地には、36階の高層タワーマンション「ザ・タワー」(写真)や商業施設などからなる「代官山アドレス」が建てられている。過去の写真にある「29号館」の跡地は、「ザ・タワー」の北東角(写真では右角)付近となる。


『春の小川』の舞台として歌われた清流の地

「渋谷駅」付近の「渋谷川」

「渋谷駅」付近の「渋谷川」。
【画像は1921(大正10)年頃】

「渋谷川」は「宮益橋」付近で「宇田川」と「穏田(おんでん)川」が合流して発し、「渋谷駅」付近を通って「天現寺橋」まで約2.6kmを流れる川で、広義では「新宿御苑」に水源を持つ「穏田川」も含めて「渋谷川」と呼ばれることもある。「宇田川」の上流にあたる「河骨(こうほね)川」が唱歌『春の小川』の舞台になったように、かつての渋谷では農村の小川のようなのどかな風景が戦後しばらく存在していた。

それが、都市化が進む中、水害対策・宅地化・下水道整備などの理由で暗渠化が進んでいった。1961(昭和36)年の「東京都市計画河川下水道調査特別委員会答申」を経て、「渋谷川」は「宮益橋」から上流の区域を暗渠化して、下水道幹線として使用することが決まった。「東京オリンピック」の開催に向けて、「渋谷川」上流の暗渠化工事は急ピッチで進み、昭和40年代初頭までには、「渋谷川」上流と支流のほとんどが地表から姿を消した。


「渋谷リバーストリート」

2018(平成30)年に誕生した「渋谷リバーストリート」(「渋谷川」沿い右奥)。右の建物が「渋谷ストリーム」。
MAP __(渋谷リバーストリート)MAP __(渋谷ストリーム)

1934(昭和9)年、「渋谷駅」付近の「渋谷川」の上には、のちに「東急百貨店 東横店東館」となる「東横百貨店」が建てられ、関東初の私鉄直営ターミナルデパートとして大いに賑わいをみせた。2013(平成25)年、「渋谷駅」の再開発計画に伴い、「東急百貨店 東横店東館」は閉館となり、その後解体された。

2018(平成30)年、再開発の一環で、東急東横線「渋谷駅」の地上駅跡地(「国道246号」より南側部分)に大型複合施設「渋谷ストリーム」が開業、隣接する「渋谷川」沿いには「渋谷リバーストリート」が誕生した。下水の高度処理水を利用し「渋谷川」の水流を復活させており、川沿いには遊歩道などの水辺空間が整備されている。



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