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学校の開設・移転と都市化

武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の「江古田駅」は、実業家・根津嘉一郎が設立した「武蔵高等学校」のための仮停留所としてスタートしている。その後も「江古田駅」の周辺に、現在の「武蔵野音楽大学」や「日本大学芸術学部」のキャンパスも誕生し、沿線は学生の街としての様相も呈していく。


根津嘉一郎が設立した「武蔵学園」 MAP __

旧制「武蔵高等学校」は、当時「東武鉄道」社長などを務めていた実業家・根津嘉一郎により、1922(大正11)年、現在の練馬区豊玉上に設立された。私立としては日本初の七年制高等学校であった。開校にあわせ、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)に「武蔵高等学校」のための仮停留所が設けられ、翌年「江古田駅」となった。1949(昭和24)年、学制改革にともない、新制の「武蔵大学」などが誕生した。【画像は1928(昭和3)年】

写真は1928(昭和3)年に竣工した大講堂。「日比谷公会堂」や「早稲田大学」の「大隈記念講堂」を手掛けた建築家・佐藤功一の設計による。

1935(昭和10)年に撮影された旧制「武蔵高等学校」の校舎(現・大学3号館)。【画像は1935(昭和10)年】

2016(平成28)年、「武蔵学園大講堂」と「武蔵大学3号館」は練馬区の登録文化財になった。

1935(昭和10)年の授業風景。【画像は1935(昭和10)年】

屋外で行われた1950年代の経済学部のゼミ。現在も「ゼミの武蔵」の伝統は引き継がれている。【画像は1950年代】

日本初の音楽大学「武蔵野音楽大学」 MAP __

1929(昭和4)年1月、幡ヶ谷の仮校舎で産声を上げた「武蔵野音楽学校」。同年3月には、現在の練馬区羽沢に新しい校舎が完成し、開校した。創立者は著名な音楽教育者で作曲家・作詞家でもある福井直秋。1949(昭和24)年に新制大学として「武蔵野音楽大学」が認可を受け、日本で初めての「音楽大学」が誕生した。写真は創立当時の校舎。【画像は1929(昭和4)年】

2017(平成29)年、新キャンパスが完成し、「武蔵野音楽大学」の歴史に新たな1ページが加えられた。

1939(昭和14)年に現在地に移転してきた「日本大学法文学部美学科」 MAP __

1921(大正10)年、「日本大学芸術学部」の前身「日本大学法文学部美学科」が神田に設置された。1939(昭和14)年、現在地(現・練馬区旭丘)へ移転となった。写真は1943(昭和18)年頃の校門。【画像は1943(昭和18)年頃】

1949(昭和24)年に「日本大学芸術学部」として独立、写真、映画、美術、音楽、文芸の5学科が設けられた。1950(昭和25)年に演劇学科、1960(昭和35)年に放送学科、1996(平成8)年にデザイン学科が加わり8学科となった。2010(平成22)年に新校舎が竣工している。

文藝実習(創作実習)の様子。『てるてる坊主』の作詞を手掛けた浅原六朗先生による授業が行われている。【画像は1943(昭和18)年頃】

映画学科の学生が、屋根の上から俯瞰撮影を行っている様子。これも「日藝」ならではの光景のひとつ。【画像は1950(昭和25)年頃】


学生が行き交う、文教の地として

竣工した頃の「東京府大泉師範学校」

竣工した頃の「東京府大泉師範学校」。【画像は1940(昭和15)年頃】

大正から昭和前期にかけ、山手線の各駅から西郊に延びる私鉄沿線には、広大な用地を求めて多くの学校が開校・移転した。武蔵野鉄道(現・西武池袋線)も例外ではなく、学生が集う街としての様相を呈していく。

現在、学生街としても知られる「江古田駅」周辺。この街の発展は、実業家で「鉄道王」としても知られる根津嘉一郎が1922(大正11)年に旧制「武蔵高等学校」を創設したことに始まる。「武蔵野鉄道」の開業当時、上板橋村江古田には駅がなかった。だが「武蔵野鉄道」の大株主だった嘉一郎により、高等学校の開校にあわせ通学用の仮停留所が開設され、翌年「江古田駅」となった。駅の北側には「江古田市場」も誕生し、一帯は商店街としても賑わうようになった。1929(昭和4)年、現在の「武蔵野音楽大学」の前身「武蔵野音楽学校」が創設され、10年後の1939(昭和14)年には、現在の「日本大学芸術学部」の前身「日本大学法文学部美学科」が神田から移転。個性豊かな三つの学校が集まる「江古田駅」周辺は、自由な雰囲気を有する賑わいの街として発展した。

1924(大正13)年4月、現在の練馬区中村北には「富士見高等女学校」が創設された。当時は寄宿舎を備え、全国から子女が集まったという。この学校は1940(昭和15)年「山種証券」創業者の山﨑種二が運営を引き継ぎ「財団法人 山崎学園」となり、現在は中高一貫校の「富士見中学高等学校」となっている。 MAP __(富士見中学高等学校)

また、現在の「大泉学園駅」周辺は、大学の誘致と住宅地の開発を合わせた「箱根土地」による学園都市の整備が進められた(詳しくはこちら)。当初の大学誘致の計画は成功しなかったものの、1938(昭和13)年には「東京府大泉師範学校」が設立された。戦後「東京学芸大学 大泉分校」となったのち、大学キャンパスは小金井に統合されたが、現在も附属学校の「東京学芸大学附属大泉小学校」「東京学芸大学附属国際中等教育学校」や「東京学芸大学大泉寮」が残っている。 MAP __(東京学芸大学附属大泉小学校)


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