竣工した頃の「東京府大泉師範学校」。【画像は1940(昭和15)年頃】
大正から昭和前期にかけ、山手線の各駅から西郊に延びる私鉄沿線には、広大な用地を求めて多くの学校が開校・移転した。武蔵野鉄道(現・西武池袋線)も例外ではなく、学生が集う街としての様相を呈していく。
現在、学生街としても知られる「江古田駅」周辺。この街の発展は、実業家で「鉄道王」としても知られる根津嘉一郎が1922(大正11)年に旧制「武蔵高等学校」を創設したことに始まる。「武蔵野鉄道」の開業当時、上板橋村江古田には駅がなかった。だが「武蔵野鉄道」の大株主だった嘉一郎により、高等学校の開校にあわせ通学用の仮停留所が開設され、翌年「江古田駅」となった。駅の北側には「江古田市場」も誕生し、一帯は商店街としても賑わうようになった。1929(昭和4)年、現在の「武蔵野音楽大学」の前身「武蔵野音楽学校」が創設され、10年後の1939(昭和14)年には、現在の「日本大学芸術学部」の前身「日本大学法文学部美学科」が神田から移転。個性豊かな三つの学校が集まる「江古田駅」周辺は、自由な雰囲気を有する賑わいの街として発展した。
1924(大正13)年4月、現在の練馬区中村北には「富士見高等女学校」が創設された。当時は寄宿舎を備え、全国から子女が集まったという。この学校は1940(昭和15)年「山種証券」創業者の山﨑種二が運営を引き継ぎ「財団法人 山崎学園」となり、現在は中高一貫校の「富士見中学高等学校」となっている。 MAP __(富士見中学高等学校)
また、現在の「大泉学園駅」周辺は、大学の誘致と住宅地の開発を合わせた「箱根土地」による学園都市の整備が進められた(詳しくはこちら)。当初の大学誘致の計画は成功しなかったものの、1938(昭和13)年には「東京府大泉師範学校」が設立された。戦後「東京学芸大学 大泉分校」となったのち、大学キャンパスは小金井に統合されたが、現在も附属学校の「東京学芸大学附属大泉小学校」「東京学芸大学附属国際中等教育学校」や「東京学芸大学大泉寮」が残っている。 MAP __(東京学芸大学附属大泉小学校)