このまちアーカイブス INDEX

陸軍の飛行場から、新しい街へ

現在の「光が丘団地」周辺は、もともとは肥沃な農地だったが、「太平洋戦争」の最中に陸軍の「成増飛行場」が建設され、首都防衛の拠点となった。この飛行場は戦後、駐留米軍家族が住む住宅地「グラントハイツ」となり、返還後は、23区最大規模の「光が丘団地」や、「東京都立光が丘公園」などが設けられた。


首都防衛のために誕生した「成増飛行場」 MAP __

現在の「光が丘団地」一帯は、田畑が広がる肥沃な農村地帯だった。ここに1943(昭和18)年12月、陸軍の「成増飛行場」が建設された。1942(昭和17)年から測量が始まり、翌年の8月には工事開始、わずか4ヶ月で完成している。南北に延びる1,800mの滑走路が造られ、首都防衛のために利用された。【画像は1944(昭和19)年】

終戦直後、攻撃を受け残骸が散らばる「成増飛行場」。【画像は終戦直後】

1977(昭和52)年頃撮影の「成増飛行場」の掩体壕(えんたいごう・空襲から戦闘機を守る格納施設)跡の様子。【画像は1977(昭和52)年頃】

米軍の家族宿舎「グラントハイツ」

終戦後、「成増飛行場」一帯は連合国軍に接収された。1947(昭和22)年、「グラントハイツ」へ改称し駐留米軍の家族宿舎を着工、翌年に完成した。敷地面積は約1.8㎢、「グラント」とは、アメリカ第18代大統領の名前にちなんで名付けられた。写真は敷地全景。【画像は1947(昭和22)年】

写真は「グラントハイツ」内の様子。学校、教会、劇場なども設置されていた。写真奥の2本の煙突がある建物はボイラー工場で、「グラントハイツ」内の暖房などに利用された。場所は、現在の「練馬区立田柄西公園」付近にあった。 MAP __【画像は1956(昭和31)年】

「グラントハイツ」内の看板には「UNITED STATES AIR FORCE」と書かれている。【画像は1967(昭和42)年頃】

「グラントハイツ」に至る東武啓志線

1946(昭和21)年、東武東上線「上板橋駅」から「グラントハイツ」に至る、東武啓志線が開業。建設資材の搬送に使われた後は、米軍家族の生活物資の輸送に利用された。東武啓志線の「啓志」とは、「グラントハイツ」建設を指揮したヒュー・ケーシー少将の名をとって名付けられた。写真は北町引き込み線。【画像は1955(昭和30)年】

東武東上線「上板橋駅」から北町(現・錦二丁目)付近を走る蒸気機関車。1959(昭和34)年に廃止された。わずか13年の短命な路線だった。 MAP __【画像は1954(昭和29)年頃】

返還された「グラントハイツ」跡地に「光が丘団地」が誕生

1959(昭和34)年頃から米軍の「グラントハイツ」入居者は「立川基地」「横田基地」へ移転を始めた。この時期から返還運動が活発化、1969(昭和44)年には「光が丘」の町名が誕生、1972(昭和47)年から順次「光が丘団地」の計画が立てられ、1973(昭和48)年に「グラントハイツ」の全面返還が実現した。写真は「グラントハイツ跡地利用区民総決起集会」の様子。【画像は1971(昭和46)年】

「光が丘団地」は1983(昭和58)年から入居が始まり、1992(平成4)年に23区で最大規模の団地が完成した。並行して「光が丘」では、「東京都立日比谷公園」の約4倍の面積となる「東京都立光が丘公園」をはじめ数多くの公園の整備も進んだ。写真のカーブしている道路は「光が丘西大通り」で、道路の左側が練馬区光が丘三丁目、右側が光が丘七丁目となる。 MAP __【画像は1987(昭和62)年】


次のページ 「練馬区」の独立


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る