大場氏は、平安時代末期の武将である大庭景親の子孫で、室町時代に吉良氏の重臣(吉良四天王の筆頭とも称された)として三河から世田谷に移ったといわれる。北条氏滅亡に伴う吉良氏の衰退により帰農、1633(寛永10)年、一帯が「彦根藩世田谷領」となった際、宗家の三代・大場六兵衛盛長と分家の大場市之丞吉隆が「世田谷代官」に任ぜられた。その後、分家が代官を継ぎ、宗家は世田谷村の名主、「世田谷宿」の問屋役などを務めた。七代・大場六兵衛盛政から「明治維新」まで、再び宗家が「世田谷代官」となった。現在残る「世田谷代官屋敷」の建物については、六兵衛盛政が1737(元文2)年に建て替えたという記録が残っている。
「彦根藩世田谷領」となった世田谷は、戦国時代にこの地域の領主・吉良氏の家臣であった大場家が代官となった。「豪徳寺」「北澤粟島社」(現「森巖寺」)、「世田谷八幡社」(現「世田谷八幡宮」)などは『江戸名所図会』にも取り上げられる観光名所となった。世田谷には、立場は反対でありながらも、近代日本の礎を作り幕末に散った、井伊直弼(なおすけ)と吉田松陰の墓所もある。