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江戸期の霞ヶ関・永田町


人々の信仰を集めた「日枝神社」と「山王祭」

江戸初期に麹町隼町から永田町に遷座してきた「山王権現」は、「江戸城」の鎮守でもあり、「山王さん」の呼び名で親しまれていた。小高い丘の上にあり、天下奉平、万民和楽を祈願する多くの人々が、麓から続く階段を上って参拝に訪れた。図は歌川広重が幕末期の1861(文久元)年頃に描いた『東都三十六景 山王権現雪中』で、階段は表参道となる「山王男坂」。
MAP __【図は1861(文久元)年頃】

1868(明治元)年には正式な社名を「日枝神社」とした。写真は現在の「山王男坂」。

画像は明治後期の「日枝神社」。【画像は明治後期】

「日枝神社」は1945(昭和20)年には戦禍にあい、社殿を焼失してしまうが1967(昭和42)年に再建。神社の建築様式のひとつである権現造の社殿は、現存する神社の中でも優れたものとして評価されている。

「日枝神社」の大祭であり、江戸期から続いている「山王祭」。中でも「神輿行列」と「山車行列」からなる「神幸行列」では、人々の目を惹きつける華やかな山車が江戸の街を練り歩き、大きな盛り上がりを見せた。現在「山王祭」では「山車行列」は行われないが、期間中は多数の儀式や祭礼行列が催されている。図は歌川広重が江戸末期の天保年間頃に描いた『東都名所 霞ケ関山王祭諌込ノ図』。霞ヶ関の坂を下る「山王祭」の「山車行列」が描写されている。左手の屋敷が「福岡藩黒田家上屋敷」、右手が「広島藩浅野家上屋敷」。
MAP __【図は天保年間頃】

「外桜田門」と「桜田門外の変」 MAP __(外桜田門)

「江戸城」へつながる門のひとつ「外桜田門」(通称「桜田門」)は、霞ヶ関の北東に位置しており、かつては「小田原街道」の始点として「小田原口」と呼ばれていた。1636(寛永13)年には、二重門の間が、敵に攻められた際に戦略的に有利な枡形の広場になっている枡形門へと改修された。1860(安政7)年、当時幕府の大老を務めていた井伊直弼が、上屋敷から「江戸城」へ登城する途中の「桜田門外」で、水戸藩浪士に暗殺される事件(「桜田門外の変」)が発生。歴史的に大きな転換点となる事件の現場となった。錦絵は1874(明治7)年頃、月岡米次郎(芳年)により描かれた『安政五戊午年三月三日於テ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図』で、「桜田門外の変」の様子が描かれている。右の門が「外桜田門」、左奥の屋敷が「彦根藩井伊家上屋敷」となる。【図は1874(明治7)年頃の制作】

上は同地点を撮影したパノラマ写真で、右に「桜田門」、左に「警視庁」が見える。「彦根藩井伊家上屋敷」は現在の「国会前庭」の場所にあった。

写真は明治後期の「桜田門」。門の前を通る路面電車の路線は、「東京市街鉄道」が1903(明治36)年に開通させた。のちに都電となり、1968(昭和43)年に廃止された。【画像は明治後期】

現在の「桜田門」は、1663(寛文3)年に再建されて以来のもので、保存状態が良好な、優れた枡形門として、1961(昭和36)年に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財に指定された。

外桜田の歴史

江戸期の「外桜田門」の西側一帯は外桜田と呼ばれ、大名屋敷が建ち並んでいた。図は1850(嘉永3)年に描かれた『麹町永田町外桜田絵図』の一部で、概ね上が北になるように回転させてある。右中央には「櫻田御門」(「外桜田門」のこと)、左中央には「日吉山王大権現社」(現「日枝神社」)と記されている。白く描かれている区画は武家屋敷で、中でも家紋が描かれている場所は、各大名が居住した上屋敷。「江戸城」に近いこのエリアには、井伊、松平、上杉など有力大名の上屋敷が多く立地していた。永田丁、霞ヶ関といった現在に続く地名も確認できる。【図は1850(嘉永3)年】

江戸期の「彦根藩井伊家上屋敷」周辺にあった「柳の井」「櫻の井」は名水として知られ、錦絵にも多く描かれた。上は幕末期の1862(文久2)年頃、二代歌川広重により描かれた『江戸名勝図会 桜田』。「彦根藩井伊家上屋敷」の東側の「桜田堀」を描いたもので、土手の下の柳の脇に「柳の井」が描かれている。【図は1862(文久2)年頃】

現在は「柳の井」のあった場所のそばに説明板が設置されている。「柳の井」と「櫻の井」は、1918(大正7)年に東京市の史蹟、1955(昭和30)年に東京都の旧跡に指定されている。
MAP __(柳の井跡地)

上の錦絵は、江戸後期、歌川広重が描いた『銀世界東十二景 外桜田雪あがりの朝』。右手前に「彦根藩井伊家上屋敷」の門の前にあった「櫻の井」、左に「桜田堀」、中央奥に「広島藩浅野家上屋敷」が描かれている。「櫻の井」には三本の釣瓶が設置され、通行人などが利用した。この錦絵の背後にあった「彦根藩井伊家上屋敷」の場所は、江戸初期には加藤清正の屋敷があり、「櫻の井」は清正が掘ったと伝えられている。1632(寛永9)年、加藤家が改易されて以降、井伊家の屋敷となった。
MAP __(当時の櫻の井)【画像は江戸後期】

現在、「彦根藩井伊家上屋敷」跡地は「国会前庭」となっている。

「櫻の井」は1968(昭和43)年に道路工事のため道路脇に移され、さらに2016(平成28)年に「国会前庭」内へ移設されている。
MAP __(現在の櫻の井)

霞が関の歴史 MAP __

霞ヶ関は、平安期より歌枕として和歌にも詠まれてきた古くからの地名。かつて、関所(正確な場所は不明)があったことに由来するといわれている。江戸期には武家屋敷の建ち並ぶ景勝地として錦絵にも描かれた(江戸期の霞ヶ関は「山王祭」の錦絵を参照)。写真は明治初期の霞ヶ関。【画像は明治初期】

写真は現在の「霞が関一丁目交差点」から見る街並み。右に見える建物は「総務省」などが入る「中央合同庁舎第2号館」、左に見える建物は「外務省」。町名は、1872(明治5)年に「霞ヶ関」と定められ、1967(昭和42)年の住居表示実施時に「霞が関」の表記へ変更になった。


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※本ページでは、現在の千代田区霞が関・永田町一帯を対象としている。
 「霞ヶ関」の町名は、1967(昭和42)年の住居表示実施時に「霞が関」となっており、本ページでは固有の施設名などを除き、表記を変えている。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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