このまちアーカイブス INDEX

江戸時代・幕末の世田谷

「彦根藩世田谷領」となった世田谷は、戦国時代のこの地域の領主、吉良氏の家臣であった大場家が代官となった。「豪徳寺」「北澤粟島社」(現「森巖寺」)、「世田谷八幡社」(現「世田谷八幡宮」)などは『江戸名所図会』にも取り上げられる観光名所となった。世田谷には、立場は反対でありながらも、近代日本の礎を作り幕末に散った、井伊直弼(なおすけ)と吉田松陰の墓所もある。


「彦根藩世田谷領」の歴史を伝える「世田谷代官屋敷」 MAP 4

大場氏は、平安時代末期の武将である大庭景親の子孫で、室町時代には吉良氏の重臣(吉良四天王の筆頭とも称された)として三河から世田谷に移ったといわれる。北条氏滅亡に伴う吉良氏の衰退により帰農、1633(寛永10)年、「彦根藩世田谷領」となった際、宗家の三代・大場六兵衛盛長と分家の大場市之丞吉隆が「世田谷代官」に任ぜられた。その後、分家が代官を継ぎ、宗家は世田谷村の名主、「世田谷宿」の問屋役などを務めた。七代・大場六兵衛盛政から「明治維新」まで、再び宗家が「世田谷代官」となった。現在残る「世田谷代官屋敷」の建物については、六兵衛盛政が1737(元文2)年に建て替えたという記録が残っている。【画像は1961(昭和36)年】

大名領の代官屋敷としては都内唯一であり、1952(昭和27)年に都史跡、1978(昭和53)年に国の重要文化財に指定されている。室町時代から世田谷の有力者であった大場家は、「明治維新」以降も現在に至るまで、私塾・学校の創設、鉄道の敷設、地域金融機関の創設、土地区画整理、文化・伝統行事の保存など、その時代ごとに、世田谷の発展へ貢献してきている。

江戸時代に賑わった「淡島の灸」 MAP 5

「森巖寺」は1608(慶長13)年、徳川家康の次男、結城秀康の位牌所として建立された。開山の清誉(せいよ)上人は、出身地である紀州(現・和歌山県)加田の「淡島明神」のお告げによる灸治により、長年の腰痛の苦しみから免れたことから、境内に「淡島明神」を勧請、代々の住職が灸治の法を伝え、毎月3・8のつく日に人々に施した。月6回の灸治の日には数千を数える人が訪れるようになり、門前は賑わいを見せたという。上図は江戸後期の『江戸名所図会』 に描かれたもので、左に「本社」とあるのが「淡島明神」、上の「別當」とあるのが「森巖寺」。【画像は1834(天保5)年】

「森巖寺」の山門には、かつて行われていた施灸の名残として「粟嶋の灸」の看板が掲げられている。施灸所の跡地は現在「淡島幼稚園」となっている。「淡島明神」では毎年2月に「針供養」が行われている。その創始は不明だが、1856(安政3)年刊の『狂歌江都名所図会』に記載がある。2006(平成18)年までは境内に富士塚もあった。渋谷区神泉町と世田谷区若林二丁目を結ぶ「淡島通り」は、ここの「淡島明神」が名前の由来。

吉田松陰を祀る「松陰神社」 MAP 6 MAP 7(国士舘大学)

長州(現・山口県)萩にあった「松下村塾」で吉田松陰の薫陶をうけた塾生はおよそ80~90名前後といわれる。当時長州藩士であった、久坂玄瑞、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文をはじめとする、いわゆる『幕末の志士』や『明治の元勲』など多くの人材を輩出した。吉田松陰は、「安政の大獄」により、1859(安政6)年に処刑となり、1863(文久3)年、「松下村塾」門弟の高杉らにより、若林村(現・世田谷区若林四丁目)の長州藩毛利家抱屋敷内に改葬された。墓所は1864(元治元)年の「禁門の変」後の「長州征伐」の際に破壊されたが、4年後の1868(明治元)年、藩命を受けた木戸孝允が新たに墓碑を立てている。1882(明治15)年に毛利元徳(長州藩最後の藩主)や門弟らにより「松陰神社」が創建された。上の写真は創建時からの社殿。石燈籠は、1908(明治41)年の「松陰先生五十年祭」の際、毛利元昭(元徳の長男)を始め、伊藤、山縣ら門弟・縁故者より奉献されたもの。【画像は大正期】

神社の創建時に造営された社殿は現在、本殿の内陣となっている。現在の社殿は1927年(昭和2)年から翌年にかけて、『明治の元勲』や崇敬者らによって造営された。石灯籠の配置も建立当時からは変わっている。模築の「松下村塾」(旧「景松塾」)は、1996(平成8)年に社殿の隣(写真の右側)へ再度移築されている。

上の写真は、1938(昭和13)年、「松陰神社」に隣接する「国士舘」が学内に「松下村塾」を精密に模築し「景松塾」と名付けた建物。1941(昭和16)年に「松陰神社」境内に寄贈、鳥居脇に移築された。国家社会のリーダーたる「国士」の養成を目的とする「国士舘」は、1917(大正6)年、現在の港区南青山に創られた私塾「國士館」を前身とし、1919(大正8)年、「松下村塾」の系譜を継ぐ学塾を目指し、「松陰神社」に隣接する地へ移転してきた。その後、戦前期に中学校、専門学校などを創設、1958(昭和33)年には大学も設置されるなど、現在では中学校から大学院まで擁する総合学園として発展している。【画像は昭和戦前期】

上の写真は、1958(昭和33)年に行われた「松陰先生百年祭」の様子。奥に見える大鳥居は、1908(明治41)年の「松陰先生五十年祭」の際に建造されたものであるが、2011(平成23)年に建て替えられた。右の手水舎の奥に見える神楽殿は1932(昭和7)年に毛利家より寄贈されたもの。【画像は1958(昭和33)年】


近代日本の礎を作りながらも幕末に散った二人の偉人

吉田松陰

吉田松陰

世田谷には、日本の幕末期において重要な事件に所縁がある寺社が二つある。一つは「松陰神社」で、もう一つが「豪徳寺」。

彦根藩井伊家は、譜代大名として江戸幕府から重用されており、大老(老中の上に臨時で置かれた幕府の最高職)を務めることもあった。13代将軍徳川家定は病弱で子どももいなかったため、その継嗣(けいし、跡継ぎのこと)を巡り徳川慶福(よしとみ)を推す「南紀派」と水戸藩徳川家出身の徳川慶喜を推す「一橋派」の勢力争いが起こった。

1858(安政5)年、「南紀派」の井伊直弼(なおすけ)が大老となると、「一橋派」は朝廷も巻き込んで抵抗するが、慶福(のちの14代家茂)の継嗣決定と「日米修好通商条約」調印を断行、翌年にかけて水戸藩をはじめとする反対派の処罰(「安政の大獄」)を行った。吉田松陰はこの中で、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺の計画などを自白、処刑となった。1860(安政7)年、井伊直弼は「江戸城」の桜田門外において、「安政の大獄」に対する復讐として、水戸浪士らに暗殺された(「桜田門外の変」)。


井伊直弼

井伊直弼

現在、「松陰神社」内には吉田松陰の墓所があり、井伊家の菩提寺である「豪徳寺」には、井伊直弼の墓所がある。

「日米修好通商条約」で横浜などの開港を決断したことから、『開港の恩人』、さらには『開国の恩人』とも呼ばれる井伊直弼と、のちに『幕末の志士』や『明治の元勲』となる人材を育てたことで知られる吉田松陰。近代日本の礎を作りながらもその行く末を見届けることなく、幕末に散った二人の偉人の墓所が、世田谷のわずか1km程の距離にあることには、因縁のようなものも感じられる。



次のページ 鉄道開通と沿線の発展


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る