写真は造成前の「千里ニュータウン」予定地。左手前は1957(昭和32)年に入居開始となった「千里山団地」。
【画像は昭和30年代】
「千里ニュータウン」は1958(昭和33)年に大阪府により開発が決定され、大阪の中心部から10~15kmほど離れた、吹田市と豊中市にまたがる「千里丘陵」に建設が進められた。計画規模は、面積1,160ha、人口約15万人に及び、この時代では海外でも例を見ない大事業だった。
この「千里ニュータウン」は、北・南・中央の三つの地区に分けられ、さらに幹線道路で区切って12の住区に分けられている。各地区には「地区センター」が設けられ、住区ごとに小学校や「近隣センター」も配置された。この「近隣センター」には、歩ける範囲で生活が送れるように、郵便局、警官派出所をはじめとする公共施設のほか、購買施設、医療施設、公衆浴場(銭湯)などが設けられた。
写真は1968(昭和43)年の「千里ニュータウン」。手前左右に広がる緑地が「千里北公園」(1965(昭和40)年開園)で、その上空から南西方向を望んでおり、中央左の緑地が「千里中央公園」(1968(昭和43)年開園)、その右奥が開園前の「千里東町公園」(1969(昭和44)年開園)となる。
【画像は1968(昭和43)年】
事業決定から3年後の1961(昭和36)年、「C住区(佐竹台住区)」の「千里南公園」予定地で起工式を挙行。翌年、第一期の入居が開始された。「大阪府住宅供給公社」「府営住宅」「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)などにより住宅が建設され、事業計画年度前半の3ヶ年で1万戸、6ヶ年で3万戸の住宅を供給することとなった。人口は、実際には計画目標の15万人に達することはなく、1975(昭和50)年の12万9千人をピークに減少している。