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「千里山住宅地」と「千里山団地」の開発

「千里丘陵」では、大正後期になると北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)が開業、「大阪住宅経営株式会社」などによる住宅開発も始まった。北大阪電気鉄道の終点であった「千里山駅」の西側には、イギリスのレッチワース田園都市をモデルにした「千里山住宅地」が誕生。また、戦後は駅の東側に「千里山団地」が建設された。


北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)の建設 MAP __

1921(大正10)年4月、北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)が「十三駅」~「豊津駅」間で開業、同年10月に「千里山駅」まで延伸された。開業当初は単線であった。1923(大正12)年に「新京阪鉄道株式会社」へ経営が移り、1925(大正14)年に「淡路駅」~「天神橋駅」(現「天神橋筋六丁目駅」)間が開通となった。図は1927(昭和2)年頃の『新京阪電車線路案内』。【図は1927(昭和2)年頃】

鉄道の開通・延伸により、千里山から大阪市内方面への交通の便は格段に良くなり、沿線の開発が促された。写真は開通前、大正後期の「千里山駅」建設地付近で、手前に工事中のトロッコ用線路が見える。左奥の山のあたりが、現在の「千里山団地」付近となる。【画像は大正後期】

1930(昭和5)年、「京阪電気鉄道」に合併され京阪千里山線となり、さらに戦時中の1943(昭和18)年に「阪神急行電鉄」との合併で「京阪神急行電鉄」の路線となった。戦後の1949(昭和24)年、「京阪電気鉄道」の分離の際、千里山線は「京阪神急行電鉄」に残された。その後、1967(昭和42)年に千里山線は千里線へ改称、1973(昭和48)年に「京阪神急行電鉄」は「阪急電鉄」に社名を変更している。写真は1957(昭和32)年の「千里山駅」付近の様子で、写真中央左手が駅舎、奥は同年完成の「千里山団地」。【画像は1957(昭和32)年】

「千里山駅」は、1963(昭和38)年に「新千里山駅」(現「南千里駅」)まで延伸されるまでは起終点駅であった。1988(昭和63)年に現在の「千里山阪急ビル」の駅舎がオープンしている。


『郊外生活の理想郷』として開発された「千里山住宅地」 MAP __

1925(大正14)年後半頃の『千里山住宅地平面図』

1925(大正14)年頃の『千里山住宅地平面図』。【画像は1925(大正14)年頃】

千里山での住宅開発は、1915(大正4)年9月、9名の発起人により「軽便鉄道免許申請書」が内閣総理大臣宛に提出されたことに端を発する。北大阪電気鉄道(現・阪急千里線)の敷設が決まると、これに関連して「千里山住宅地」の開発が進められた。

1920(大正9)年に設立された「大阪住宅経営株式会社」は、「北大阪電気鉄道株式会社」が所有する10万3,700坪の土地のうち9万8,300坪を譲り受け、イギリスのレッチワースをモデルにした「田園都市構想」に基づき「千里山住宅地」を建設した。

開発初期の「千里山住宅地」

開発初期の「千里山住宅地」。【画像は大正後期~昭和初期】

「千里山駅」の西側に広がる「千里山住宅地」は、駅西口の少し先に花壇のあるロータリーが設置され、ここから放射状に道路が延びている。約2千戸の住宅建設が計画され、1区画は70~80坪で、日本式と改良式(洋風)の住宅が建てられた。住宅地には電気・ガス・上下水道が整備され、売店や浴場、ビリヤードなどの設備がある集会用の「千里山会館」やテニスコートも造られた。1924(大正13)年には戸数約100戸、人口は300人余りだったが、1931(昭和6)年には戸数464戸、人口2,123人となり、ベッドタウンとして発展していく基礎となった。

「田園都市」の理念が取り入れられた「千里山住宅地」 MAP __

19世紀末、イギリスにおいて「産業革命」により悪化した住環境や労働環境が問題となる中、社会改良家のエベネザー・ハワードは「田園都市」の建設を提唱。1903(明治36)年、この理念に基づく初の「田園都市」である「レッチワース」がロンドン北郊で着工となった。この「田園都市」の理念は、日本の郊外住宅地の開発にも大きな影響を与え、1920(大正9)年から開発が始まった「千里山住宅地」では、中央部の「第一噴水」を中心に放射状の道路も設置された。写真は昭和後期の「第一噴水」前にあった「文化堂」前から「千里山駅」を望んだ景色。【画像は昭和後期】

「千里山駅」西口から「第一噴水」方向に続く道路は、「田園都市」の歴史にちなみ、2000(平成12)年に「レッチワースロード」と名付けられた。写真は現在の「レッチワースロード」。「第一噴水」の東角にあった「文化堂」は開発当初からある商店として長年親しまれてきたが、1997(平成9)年に閉店している。


「日本住宅公団」が最初期に開発した「千里山団地」 MAP __

1957(昭和32)年当時の「千里山団地」

1957(昭和32)年当時の「千里山団地」。【画像は1957(昭和32)年】

「千里山駅」の西側では、大正後期に「千里山住宅地」が開発されたのに対し、駅の東側は昭和30年代まで、大きな開発は行われなかった。

1955(昭和30)年、戦後の住宅問題の抜本的な解決のため「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)が設立された。「日本住宅公団」は「千里山駅」の東側に、最初期の開発となる「千里山団地」を建設。入居開始は1957(昭和32)年で、大阪支所の団地では2番目であった。ゆるやかな傾斜を利用した棟の配置で、4階建ての階段室住棟を中心に、49棟1,061戸からなり、時代の先端をいく集合住宅として人気を博した。

駅前商業施設や交通広場が完成した現在の「千里山団地」

駅前商業施設や交通広場が完成した現在の「千里山団地」。

建設から半世紀を経て、老朽化した団地の居住環境向上や「千里山駅」周辺の一体的な整備を行うため、2005(平成17)年「まちづくり懇談会」が発足。「千里山駅周辺整備事業」として、2011(平成23)年から2014(平成26)年にかけて「UR都市機構」の「千里山団地」7棟340戸の建替え、商業施設「BiVi千里山」の建設(2015(平成17)年開業)などが行われ、2016(平成28)年には「千里山駅前交通広場」が完成した。


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