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住宅地と商業・交通の発展

大正期から昭和初期にかけて、現在の昭和区・瑞穂区の一帯で「東郊耕地整理」をはじめとする耕地整理・土地区画整理が行われ、道路などの整備が進み、住宅地や工業地が発展、周辺には商業地も形成された。幹線道路には市電東郊線が開通、市中心部へ直通できるようになり交通利便性が向上、商業地もさらに賑わった。1928(昭和3)年に開催された「大名古屋土地博覧会」では、土地区画整理を市民に広めることに成功している。


戦前期に発展した「雁道商店街」

明治後期以降、「新堀川」沿いに工業地が発達し周辺の人口は増加。1923(大正12)年に市電東郊線の開通により「雁道(がんみち)停留場」が開業、この地域を訪れる人も増え、「高田街道」沿いに商業地(後の「雁道商店街」)が形成された。最盛期は1935(昭和10)年頃で、『銀ぶら』ならぬ『雁ぶら』という言葉も生まれた。また、「愛知県熱田中学校」へ通学する学生でも賑わったという。写真は「雁道停留場」付近より東方面の様子。MAP __【画像は1934(昭和9)年頃】

戦時中に商店街の一部は強制疎開させられたが、戦後の復興は早かった。写真は1964(昭和39)年頃の「雁道商店街」の様子。【画像は1964(昭和39)年頃】

写真は現在の様子で、アーチは撤去されている。周辺では空襲の被害もあったが、街全体への延焼は免れたため、戦前からの建物も随所に残るが、商店を廃業し、住宅や駐車場として利用されている所も多い。

写真は船原町二丁目の交差点より東方面を望む街路の様子。交差する道は「雁道商店街」の途中から南に分かれる「賑町商店街」で、この道路沿いも当時から商業地として賑わっていた。MAP __【画像は1934(昭和9)年頃】

「賑町商店街」周辺には現在も大正期・昭和初期の建築物も多く見られるほか、古くより営業を続ける乾物店、公衆浴場、旅館なども残っている。

市電東郊線の開通 MAP __

「東郊耕地整理」では、幹線道路は路面電車が通行できる八間(約14.5m)の幅員で整備された。名古屋市の市内電車は1898(明治31)年から「名古屋電気鉄道」(現「名古屋鉄道」)が経営していたが、1922(大正11)年に市営化、「東郊耕地整理」内の路面電車も市営として建設・経営されることとなり、1923(大正12)年、市電東郊線の小針(現在の「鶴舞中央図書館」前付近)から牛巻及び高辻・滝子間が開通した。写真は1934(昭和9)年頃の小針付近の東郊線で、南を望んでいる。停留場名は1931(昭和6)年に小針から動物園前へ改称している。【画像は1934(昭和9)年頃】

1925(大正14)年には省線(現・JR)中央線のガード化が完成。東郊線から栄町など市中心部へ直通できるようになった。東郊線は1927(昭和2)年に堀田まで延伸。1928(昭和3)年には藤成線として滝子・桜山町(後の市大病院)間が開通、その後、桜山町から南へ順次延伸された。現在は市電は廃止され、この付近では頭上に「名古屋高速都心環状線」が通っている。

「大名古屋土地博覧会」の開催 MAP __(土地博本館)

1928(昭和3)年、昭和天皇の即位を祝い「鶴舞公園」で開催された「御大典奉祝名古屋博覧会」(以下「御大典博」)の隣接地で「大名古屋土地博覧会」(以下「土地博」)が開催された。「名古屋市区画整理耕地整理連合会」「都市創作会」の主催で、約90の土地区画整理・耕地整理組合、土地会社が参加、1日平均8~9千人の入場者を集め、土地区画整理について一般の市民に幅広く広めることとなった。画像は開催時のポスター。【画像は1928(昭和3)年】

「土地博」の本館は、公園内の「噴水塔」と「名古屋市公会堂」(当時建設中)の間に作られた。画像は「御大典博」の会場案内図と、その一部分を拡大したもの。「御大典博」の本門と「噴水塔」を挟んで向かい合う、集客に絶好の場所であった。【画像は1928(昭和3)年】

本館では、各組合の紹介が行われたほか、希望者には専用の自動車12台で現地会場の各地区へ案内し、住宅や土地の販売でも大きな成果をあげた。画像はポスターに添えられた案内文で、「東郊」「阿由知(あゆち)」「瑞穂」など、現在の昭和区・瑞穂区内の組合名も記載されている。【画像は1928(昭和3)年】


「大名古屋」の誕生と都市計画

明治末期、名古屋市は人口が急増し計画的な都市づくりが必要となった。1911(明治44)年、市により「名古屋市区改正調査会」が設置され、市域の拡大や道路・河川・公園などの計画が検討された。1918(大正7)年、名古屋市は「市区改正準用都市」に指定されるが、翌年「都市計画法」が成立し、以降は「都市計画法」に基づく計画と開発が進められた。

1920(大正9)年に「都市計画法」が施行、6大都市(東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)に適用された。「内務省」は「都市計画名古屋地方委員会」を設置、翌1921(大正10)年に公表した都市計画区域案は、当時の名古屋市の周辺町村も含まれるものとなった。この公表を機に同年、愛知県の告示により、16町村が名古屋市に編入され、御器所村は中区の一部、呼続町は南区の一部となった。名古屋市の市域面積は東京市の約2倍で全国最大、人口は60万を超え東京市・大阪市に次ぐ全国第3位という大都市、いわゆる「大名古屋」が誕生した。

『名古屋都市計画地域指定参考図』の一部

1924(大正13)年、用途地域が指定された。緑色が「住居地域」、青色が「工業地域」、赤色が「商業地域」、赤線の道路は沿道が「商業地域」。区名・区界線は現在のものを追記している。【図は1924(大正13)年】

1922(大正11)年に都市計画区域が決定、1924(大正13)年には用途地域が指定された。大正期に決定された都市計画は、昭和期に入って実施に移され市街化が進展。また、大正期から耕地整理・土地区画整理も盛んに行われ、終戦までに施行面積にして約89km2(当時の市域面積の約55%にも及ぶ)となる131の組合が設立認可された。これにより市内各所に整然とした街路の市街地が形成された。

1934(昭和9)年、名古屋市の人口は100万人を超えるが、4区しかなかった。各区の行政事務が多くなり、市域の拡大で区役所が遠い地域もあったことから、1937(昭和12)年に増区が行われ10区となった。この際、旧御器所村と、旧呼続町のうち旧瑞穂村に当たる地域などを併せて昭和区が誕生。さらに戦時中の1944(昭和19)年、行政区と警察の管轄区域を一致させることなどを理由に3区の増区が行われた際、昭和区から旧瑞穂村などの地域が分離され瑞穂区が誕生した。


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