紀元前90(崇神天皇8)年、崇神天皇が疫病をおさめるため「須佐之男神(すさのおのかみ)」を祀ったのが「方違(ほうちがい)神社」の創祀といわれている。その後、神功皇后が反乱にあった際に、この地で方災除けを祈願し勝利した。また、応神天皇が、「須佐之男神」「三筒大神(みつつおのおおかみ)」と神功皇后を合わせ祀り、「方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)」と名付けた。この地は三国の国境で方位がない地と考えられ、参拝することによって悪い方位を祓うとされている。
堺周辺に人が定住し始めたのは旧石器時代頃といわれ、古墳時代には、「仁徳天皇陵古墳」を含む古墳群が造られた。摂津・河内・和泉の三国の国境があったことから、平安時代に「さかい」と呼ばれるようになった。室町時代になると商業が発達、町の自治は有力商人の集団である「会合衆(かいごうしゅう・えごうしゅう)」により行われた。また、国際貿易により大きな富を得た堺は、戦乱から町を守るために周囲に濠をめぐらせた「環濠都市」となった。江戸時代には、「元和(げんな)の町割」や、「大和川」付替え工事など、現在の堺にも続く町の枠組みが作られ、明治時代以後は鉄道も開通し、急速に近代化が進んだ。