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「自由・自治都市」として発展

1469(文明元)年、「遣明船」が堺の港に着岸したことがきっかけで、国際貿易が盛んになった。室町時代には、町の北・東・南の三方に濠をめぐらせ、守護大名や武士の侵入から守られた「自由・自治都市」として栄えた。町の自治は「会合衆」と呼ばれた有力商人が行った。


「住吉大社」の御旅所である「宿院頓宮」

「宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)」は、摂津国の一之宮である「住吉大社」の御旅所(神様の休憩所、祭礼時に留まる場所)となったのが始まり。図は江戸時代前期に作られた屏風の右隻(うせき)で、「住吉大社」から祭神が神輿に乗り、「宿院頓宮」へ渡御する様子や町の周囲にめぐっている濠が描かれている。図の右上が「宿院頓宮」。【図は江戸前期】

図は「宿院頓宮」部分を拡大したもので、神事相撲などが行われている。
MAP __(かつての社殿の場所)【図は江戸前期】

かつては現在地より50mほど北側に社殿があったが、1945(昭和20)年の「堺大空襲」で焼失。復興都市計画により「宿院通り」が拡幅されることになり、1949(昭和24)年、少し南に遷座し兵庫県西宮市にある「廣田神社」の御用材で再建された。
MAP __(現在地)

「宿院通り」は復興都市計画により50m道路として拡幅され昭和30年代に完成、分離帯には堺の復興の象徴として、不死鳥の伝説になぞらえたフェニックスが植えられ、のちに「フェニックス通り」と呼ばれるようになった。かつて「宿院通り」と「東六軒筋」の交差点には「宿院頓宮」の鳥居があり、現在その跡地付近には「旧宿院跡」の碑が建てられている。
MAP __(旧宿院跡の碑)

鎌倉時代に始まったといわれる「大魚夜市」

「大魚夜市(おおうおよいち)」は、「住吉大社」の神輿が「宿院頓宮」に渡御する「夏越祓神事(なごしはらえしんじ)」に合わせて多くの漁師が魚を持ち寄り、「住吉大社」へ魚を奉納、やがて余った魚介類を売るため魚市をたてるようになったことが起源といわれている。鎌倉時代から「太平洋戦争」中を除き700年以上続く、堺の夏の風物詩として、人々に親しまれている。【図は明治前期】

「大魚夜市」は、かつて「大浜海岸」で行われていたが、1958(昭和33)年に埋められたことで、「大浜公園」に会場が移った。見どころは、一般の人も参加できる「魚セリ」。
MAP __(現在の会場)

三方にめぐらせた堺を守るための濠

15世紀から16世紀にかけて、「自由・自治都市」として繁栄した堺では、貿易で富を得た商人らが守護大名や武士の侵入から町を守るため、海に面する西側以外の三方には濠をめぐらせた。その後、豊臣秀吉により濠が埋められたが、江戸時代の「元和の町割」で、碁盤の目に区画された町の外側に濠を掘りなおした。この濠に「土居」という堤防を築いたことが「土居川」の名称の由来とされる。

写真は昭和前期の航空写真で、下から右上(北)に伸びている川が「土居川」の東側部分となる。左の大きな屋根の建物は江戸後期、1825(文政8)年築の「堺御坊」(「本願寺堺別院」)の本堂。明治時代に入ると「廃藩置県」で堺県が置かれるが、1871(明治4)年から大阪府に編入される1881(明治14)年までの10年間は「堺御坊」が「堺県庁舎」として使用された。この本堂は現在も残っており、市内最大の木造建築となっている。本堂の右上側に建つ建物は1914(大正3)年にこの地へ移転してきた「錦尋常小学校」。
MAP __(堺御坊)【画像は昭和前期】

昭和30年代、日本の都市の河川の多くは生活や工業の廃水で汚染が進んだ。「土居川」は、特に人工の濠(感潮河川)であることから水流も少なく、悪臭や汚濁などで市民の苦情も多くなった。そのため、堺市は「土居川」の北側・東側部分を暗渠化(下水道化)し、地上は道路とすることを決定。昭和40年代に工事が進められ、1970(昭和45)年には「阪神高速15号堺線」(写真左上)も開通した。写真は「錦尋常小学校」の後身「堺市立錦小学校」の校庭(右側)付近から南方向の撮影で、右奥に「堺御坊」の屋根が見える。
MAP __(現在写真の撮影地)

「土居川」の南側部分は現在も残る。写真は「山之口橋」から東方向を望む。左奥の森が「南宗寺」。
MAP __(山之口橋)

町を治めていた「会合衆」の集会所「開口神社」

200(仲哀天皇9)年頃、神功皇后により創建されたとされる「開口(あぐち)神社」。奈良時代には「開口水門姫神社」と呼ばれていた。また、行基が境内に「念仏寺」を建立。通称が「大寺」だったことから「大寺さん」とも呼ばれている。室町時代には「南荘(みなみのしょう)」の鎮守として崇敬され、町を治めていた「会合衆」の集会所の役割も果たしていた。

写真は大正期の境内で「三重塔」の先に「本殿」があった。「本殿」「三重塔」など境内の建物は1945(昭和20)年の空襲で全焼。戦後、「三重塔」は再建されなかった。
MAP __(三重塔跡地)【画像は大正期】

戦後、境内を分断する形で道路が建設され、その後、市は道路の東側を買い上げ、幼稚園・保健所を移転。「開口神社」は道路で分断されてしまっていた「仮本殿」(旧「本殿」の場所に建てられていた)を西側の境内へ移すこととし、1964(昭和39)年、現在の場所(写真左)に本殿を再建した。かつて「本殿」があった場所は、幼稚園・保健所の建て替えと併せて、1969(昭和44)年に「日本住宅公団」(現「UR」)の「甲斐町(かいのちょう)市街地住宅」(写真奥)が建設された。「三重塔」跡地は写真右の鳥居の先の道路上になる。
MAP __(旧本殿)MAP __(現在の本殿)


国際貿易で堺の商人が活躍 「会合衆」が治める「自由・自治都市」に

濠で囲まれた堺

濠で囲まれた堺。
【図は1704(宝永元)年】

鎌倉時代に漁港として発展した堺は、南北朝時代には南朝方の外港としての役割を果たした。やがて室町時代に三代将軍・足利義満により「日明貿易(勘合貿易)」が開始されると、当初は博多や兵庫の港が窓口となっていたが、「応仁の乱」の後には堺の商人もこれに加わり、「遣明船」の発着港となった。記録によれば、1474(文明6)年、「室町幕府」の命により、堺の商人が琉球に出掛けたとあり、1476(文明8)年には「遣明船」が堺の港を出発した。

薩摩から「種子島」などを経由して琉球へと往復していた堺の商人は、1543(天文12)年、「種子島」に鉄砲(火縄銃)が持ち込まれるとすぐに、その製造技術を堺に持ち帰った。その後、堺で鉄砲の大量生産に成功。鉄砲は堺において町の経済を支える有力な産業となった。

16世紀、ヨーロッパからポルトガル・スペインの商人が「インド洋」を越えて、インド、「マラッカ海峡」経由で日本にやってきた。日本の窓口は平戸・長崎など九州の港であったが、堺の商人は九州に出向いて、中国の絹や生糸、東南アジアの物産を銀などと交換する取引を行った。1550(天文19)年には、来日したキリスト教の宣教師、フランシスコ・ザビエルも堺を訪れている。

国際貿易により富を貯えた堺は「会合衆」と呼ばれた有力商人が町を治め、「自由・自治都市」として栄えた。また、町の周囲に濠をめぐらせ、守護大名や武士の侵入から町を守った。しかし、1568(永禄11)年、織田信長が堺に対し、軍用金二万貫を要求。「会合衆」は一度は拒否し、抵抗したものの、ついには信長の武力の前に屈服し、自治権を奪われた。

しかし、国際貿易において堺の商人は活躍を続け、豊臣秀吉、徳川家康による「朱印船貿易」の時代には、堺商人の木屋弥三右衛門、西ルイスらが「朱印船」を派遣。「江戸幕府」による鎖国政策が実施されるまで、多くの商人が海外に進出した。


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