濠で囲まれた堺。
【図は1704(宝永元)年】
鎌倉時代に漁港として発展した堺は、南北朝時代には南朝方の外港としての役割を果たした。やがて室町時代に三代将軍・足利義満により「日明貿易(勘合貿易)」が開始されると、当初は博多や兵庫の港が窓口となっていたが、「応仁の乱」の後には堺の商人もこれに加わり、「遣明船」の発着港となった。記録によれば、1474(文明6)年、「室町幕府」の命により、堺の商人が琉球に出掛けたとあり、1476(文明8)年には「遣明船」が堺の港を出発した。
薩摩から「種子島」などを経由して琉球へと往復していた堺の商人は、1543(天文12)年、「種子島」に鉄砲(火縄銃)が持ち込まれるとすぐに、その製造技術を堺に持ち帰った。その後、堺で鉄砲の大量生産に成功。鉄砲は堺において町の経済を支える有力な産業となった。
16世紀、ヨーロッパからポルトガル・スペインの商人が「インド洋」を越えて、インド、「マラッカ海峡」経由で日本にやってきた。日本の窓口は平戸・長崎など九州の港であったが、堺の商人は九州に出向いて、中国の絹や生糸、東南アジアの物産を銀などと交換する取引を行った。1550(天文19)年には、来日したキリスト教の宣教師、フランシスコ・ザビエルも堺を訪れている。
国際貿易により富を貯えた堺は「会合衆」と呼ばれた有力商人が町を治め、「自由・自治都市」として栄えた。また、町の周囲に濠をめぐらせ、守護大名や武士の侵入から町を守った。しかし、1568(永禄11)年、織田信長が堺に対し、軍用金二万貫を要求。「会合衆」は一度は拒否し、抵抗したものの、ついには信長の武力の前に屈服し、自治権を奪われた。
しかし、国際貿易において堺の商人は活躍を続け、豊臣秀吉、徳川家康による「朱印船貿易」の時代には、堺商人の木屋弥三右衛門、西ルイスらが「朱印船」を派遣。「江戸幕府」による鎖国政策が実施されるまで、多くの商人が海外に進出した。