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古くから暮らしが営まれていた大森・蒲田


日本考古学発祥の地「大森貝塚」 MAP __

「大森貝塚」は1877(明治10)年、アメリカの動物学者エドワード・シルベスター・モース博士によって発見、発掘された日本考古学上最初の遺跡。縄文時代後期から晩期を中心とする集落を伴う遺物が出土し、「日本考古学発祥の地」とも呼ばれている。画像は1879(明治12)年に出版された発掘報告書『大森介墟編』に掲載されている発掘風景。品川区により1984(昭和59)年と1993(平成5)年に発掘調査が行われ、広範囲の貝層や住居跡が見つかった。【画像は1877(明治10)年】

モース博士が発掘した場所は報告書に正確な場所が明記されていなかったため、大田区・品川区それぞれに碑が設置されている。写真は大田区にある「大森貝墟」の碑。1930(昭和5)年に建立された。

暴れ川に苦しめられた「六郷川」の架橋

1600(慶長5)年、徳川家康の命により「六郷川(多摩川)」に「六郷大橋」が架けられた。たびたび洪水に見舞われ修復や架け直しを繰り返してきたが、1688(貞享5)年に発生した洪水により流失して以降は再架橋を断念。明治初期までは渡舟が利用されていた。浮世絵は歌川広重が描いた『東海道五拾三次』のうち『川崎・六郷渡舟』。【画像は1833(天保4)年頃】

現在、「六郷橋」の川崎側に渡船跡の碑と「明治天皇六郷渡御碑」(写真右)が建てられており、親柱には渡船のモニュメント(写真左上)が設置されている。
MAP __(明治天皇御渡御碑)

1874(明治7)年に再び木造の「左内橋」が架けられると「六郷の渡し」は廃止された。しかしその4年後に洪水で流失。1883(明治16)年にも木造の「六郷橋」が架けられたが1910(明治43)年の洪水で流失。その後、近代化が進み増加する交通量に耐えうる本格的な橋が望まれるようになり、1925(大正14)年に鋼鉄製の「六郷橋」が架橋。同年完成した「京浜国道」(現「国道15号」)とともに首都圏の大動脈として経済成長を支えた。写真は明治後期の「六郷橋」で、現在の大田区側からの撮影。京浜電気鉄道(現・京急本線)は当初は路面電車で、1901(明治34)年の大森方面への延伸開通時には、「多摩川」を「六郷橋」に並行して架橋した木橋で渡っていた。写真では奥が道路橋の「六郷橋」、手前が京浜電気鉄道の木橋で、左には木材を舟に積んでいる様子も写る。多摩の木材は江戸時代より「多摩川」の上流から筏(いかだ)を組んで運ばれ、河口付近の六郷・羽田を集積地としていた。【画像は明治後期】

この「六郷橋」も通行車両の増加や大型化などを理由に架け替えられることになり、新しい「六郷橋」は旧橋の上流側に並ぶかたちで架橋され、1984(昭和59)年に供用開始。引き続き旧橋の架け替えが行われ、1987(昭和62)年に完成し上下線を分離。その後周辺の整備が行われ、1997(平成9)年に現在の姿となった。
MAP __(六郷橋)

旧「六郷橋」の親柱と橋門は、現「六郷橋」の大田区側のロータリー内に整備された「宮本台緑地公園」(1986(昭和61)年開園)で保存されている。
MAP __(宮本台緑地公園)

「東海道」沿いの梅の名所「梅屋敷」 MAP __

蒲田は古くから梅の産地で、その由来は平安時代に京都から移植されたものとも伝わる。江戸時代に旅の常備薬として知られた「和中散」は、「東海道」沿いの近江・梅木(現・滋賀県栗東市)で江戸初期に創業した薬店が旅人を相手に販売し人気となった薬。江戸前期になると大森・蒲田の「東海道」沿いにも「和中散」の薬店が開業(大森に2店、蒲田に1店)したといわれる。江戸後期の文政(1818~1830年)の頃、蒲田の旅宿で財を成した山本忠左衛門は、蒲田の「和中散」の薬店と屋敷を買い取り、その子・久三郎が梅園・庭園・茶屋などを整備すると「東海道」を行き交う人々が休憩で立ち寄るように。亀戸の「梅屋敷」と並ぶ梅の名所となり『江戸名所図会』などにも描かれた。浮世絵は江戸末期、歌川広重により描かれた『名所江戸百景』より『蒲田の梅園』。 【画像は1857(安政4)年】

「東海道」沿いに位置する「梅屋敷」は、幕末期には諸国の志士達が集う場ともなった。明治時代となった1868(明治元)年、明治天皇は京都と東京を往復(「東京行幸」と「京都還幸」)し、翌年の「東京再幸」で事実上「東京奠都(てんと)」となるが、この3回の行幸の際、蒲田の「梅屋敷」は小休の場所となった。明治天皇は、その後も旧「東海道」を行幸する際、小休で「梅屋敷」をたびたび利用したほか、観梅に訪れたこともあった。明治後期になると衰退を見せるようになり、1898(明治31)年に売却され経営者が変わった。旧「東海道」は1885(明治18)年に「国道1号」(現「国道15号」)へ指定、1901(明治34)年には「京浜電気鉄道」が「国道1号」上の併用軌道(路面電車)として延伸され、「梅屋敷」の前に「梅屋敷停留場」(現「梅屋敷駅」の前身)が設置された。写真は明治後期の「梅屋敷」の園内。 【画像は明治後期】

大正後期になると「国道1号」の拡幅が行われ、「京浜国道」(現「第一京浜」)とも呼ばれるようになった。この拡幅の際、「梅屋敷」の東側の敷地は大きく削られた。また京浜電気鉄道(現・京急本線)の梅屋敷~雑色間の専用軌道化も進められ、「梅屋敷」の西側の敷地が用地として削られた。こうした中、明治天皇のゆかりの地でもある「梅屋敷」の衰退を危惧した地元有志は、1926(大正15)年に「明治天皇蒲田御遺蹟保存会」を結成、1933(昭和8)年には国の「明治天皇聖蹟」に指定された。1938(昭和13)年、敷地・建物が東京市へ寄付され、翌年「聖蹟蒲田梅屋敷公園」として開園した。図は開園時の園内図で、図の上部に「京浜電車」、下部に「京浜国道」が通る。【図は1939(昭和14)年】

東京市立だった「聖蹟蒲田梅屋敷公園」は、1943(昭和18)年の東京都制により東京都立となり、1953(昭和28)年に大田区へ移管され「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」となった。大田区は園内に「梅屋敷体育館」を建設し1955(昭和30)年に開館、同年「梅屋敷相撲場」、翌年「梅屋敷弓道場」も設置され、大田区のスポーツの拠点に。1965(昭和40)年、「第一京浜」を挟んで向かい側に「大田区体育館」を開館したため、「梅屋敷体育館」はその後閉館となった。その「大田区体育館」も老朽化のため建て替えられ、2012(平成24)年に「大田区総合体育館」が開館、「梅屋敷弓道場」はその館内へ移転した。現在、「第一京浜」の拡幅工事が進められており、公園の敷地はさらに縮小されることになり、これに伴い「梅屋敷相撲場」は2017(平成29)年に閉鎖された。写真は現在の「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」。

羽田の歴史を見守ってきた「穴守稲荷神社」

江戸後期、鈴木弥五右衛門が開墾した鈴木新田という地が現在の「羽田空港」の敷地の基盤となっている。低地であったため海岸に堤防を巡らし、守護神を祀ったのが「穴守稲荷神社」の起源。風光明媚で周辺の干潟では潮干狩りが楽しめるとあって参拝客が徐々に増加。1894(明治27)年には鉱泉が発見され、神社へ続く参道には料亭や芸者屋が軒を連ねるようになった。1902(明治35)年には参詣者輸送のために京浜電気鉄道の羽田支線(現・京急空港線)が開通、1913(大正2)年には神社の前まで延伸され、門前は一大歓楽街として栄えた。
MAP __(当初の場所) 【画像は明治後期】

1945年8月の終戦に伴い「羽田空港」は「GHQ」に接収され、9月21日には飛行場拡張のため「海老取川」より東側の全住民、約1,200世帯・約3,000名が48時間以内の退去を命じられた。これに伴い「穴守稲荷神社」も遷座することになり、1948(昭和23)年に現在の地に「仮本殿」が落成となった。写真は現在の「穴守稲荷神社」。写真右奥の「稲荷山」は2020(令和2)年に完成した。
MAP __(現在の穴守稲荷神社)

写真は1929(昭和4)年に信徒が奉納した「大鳥居」で、かつては「穴守駅」から参道へ向かう道に西向きに建てられていた。「GHQ」による飛行場拡張の際も残されたが、その理由は基礎が強固で撤去が難しかったから、また、撤去しようとした際に事故などがあり、祟りを恐れたためともいわれる。返還後も「羽田空港ターミナルビル」(1955(昭和30)年から1993(平成5)年まで使用)の前の駐車場に残されていたが、新「B滑走路」(2000(平成12)年供用開始)の建設に伴い、1999(平成11)年に「弁天橋」付近へ移設された。かつての「穴守稲荷神社」は、写真左手の大きな建物の先にあった。
MAP __(移設前の場所)MAP __(現在の大鳥居)


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