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住宅街へ発展した景勝地・山王

「大森駅」の西側、山王のエリアは高台にあり、江戸時代には広重が浮世絵に描くなど、古くから海を望める景勝地として知られていた。明治期から大正期にかけては「八景園」と呼ばれる遊園地も開業。山王一帯は別荘地・住宅地として発展していく。


美しい八景が望めた「八景坂」

現在の「大森駅」の「山王口」前を通る「池上通り」の坂道からは、かつて、遠くは房総まで一望できたという。「笠島夜雨」「鮫洲晴嵐」「大森暮雪」「羽田帰帆」「六郷夕照」「大井落雁」「袖浦秋月」「池上晩鐘」という八つの美しい風景が見えることから「八景坂」と呼ばれていた。坂の上には源義家が奥州平定に立ち寄った際に鎧をかけたと伝えられる「鎧掛松」があり、歌川広重の浮世絵にも描かれている。【画像は1856(安政3)年頃】

現在は駅や建物があるため、「池上通り」の坂道から眺望を楽しむことはできない。明治期に枯れたという「鎧掛松」は、現在の「大森RaRa」のあたりにあったといわれる。写真中央は1816(文化13)年に建立された、江戸後期の俳人・大野景山の句碑。「天祖神社」の石段横にあり、裏面に八景の名称が刻まれていることから「八景碑」と呼ばれている。 MAP __(八景碑)

昭憲皇太后も行啓した「八景園」 MAP __

1884(明治17)年、実業家・久我邦太郎は、「大森駅」西側の台地、約3万3,000㎡もの広大な土地を購入し「八景園」と名付けて開園した。図は1912(明治45)年発行の『東亰市及接續郡部地籍地圖』に掲載されている「八景園」。【図は1912(明治45)年発行】

1887(明治20)年には園内にわらぶきの家屋を建て、桜や梅の木を植樹。さらにその翌年、蟹料理を名物とする「三宜樓」を開業。郊外随一の遊園地として有名になり、1902(明治35)年には皇后(後の昭憲皇太后)も行啓された。しかし1913(大正2)年には「三宜樓」が廃業。「八景園」は1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけて区画分譲され、住宅地に変わっている。【画像は明治後期~大正期】

「大森駅」西側の「天祖神社」裏手一帯が「八景園」であったが、現在は住宅地となっており面影はない。

1902(明治35)年に皇后が行啓された際、隣接する加納久宜(ひさよし)子爵邸に記念碑が建てられた。加納久宜は「上総一宮藩」最後の藩主で、同1902(明治35)年には、イギリスの協同組合制度を手本として、東京で最初となる「入新井信用組合」(現「城南信用金庫」の前身の一つ)を自邸内に設立、地域の振興にも努めた人物であった。現在、記念碑は加納邸跡地に建つマンションの一角に残る。 MAP __

「大森射的場」は「大森テニスクラブ」へ MAP __

1889(明治22)年、荏原郡大森村(現・大森二丁目)に明治天皇の御下賜金を受け、西郷従道(西郷隆盛の実弟)らにより「大森射的場」が開かれた。当時主要兵器だった小銃の数少ない民間練習場の一つで、経営には射撃の名手・村田経芳らも参加していた。西洋で育まれたスポーツマンシップも会得しようと、大正初期に敷地内に2面のテニスコートが設けられ、これが現在に続く「大森テニスクラブ」の基盤となった。その後周囲の住宅地化が進み、実弾射撃には適さない地になったとして、1937(昭和12)年には敷地の3分の2を分譲地とし、テニスコートを残して射撃場は北寺尾に移転した。【画像は大正期】

テニスコートは、現在も世の平和を願うスポーツマンシップの精神とともに受け継がれている。

「大森テニスクラブ」の駐車場の一角に「日本帝国小銃射的協会跡」の碑が設置されている。


別荘地・住宅地として開発された山王

昭和初期の「大森駅」の「山王口」前の様子

「大森駅」の「山王口」前の様子。【画像は昭和初期】

JR「大森駅」の東は低地、西は高台になっており、高台からはかつて海が見渡せた。景勝地として知られ、「八景坂」の上部にあった「鎧掛松」を広重が描いた浮世絵も残されている。日本で初めての鉄道が新橋~横浜間で開通した際、「大森駅」は開設されていなかったが、「大森貝塚」を発見したモース博士や鉄道建設に従事したお雇い外国人たちが付近に住んでおり、必要に応じて列車を停めていたことから、1876(明治9)年に「大森駅」が開設された。

1889(明治22)年に官営鉄道(現・JR東海道線)が全線(新橋~神戸間)開通、この頃から山王や大森に別荘・住宅を建てる政治家、実業家、高級官吏、高級将校などが増えた。1884(明治17)年に「八景園」、1891(明治24)年に「大森海水浴場」が実業家・久我邦太郎により開設され、1899(明治32)年には森ケ崎で鉱泉が発見され行楽地としても栄えていった。入新井村(現・山王)では1916(大正5)年から1922(大正11)年にかけて、現在の大田区内でもいち早く耕地整理が行われ、住宅地化が進んだ。人気を誇った「八景園」も、閉業後、1922(大正11)年から住宅地として分譲されている。

現在の山王一丁目にある「蘇峰公園(山王草堂記念館)」MAP __ は、評論家・徳富蘇峰の居宅跡であり、南側には作家・尾﨑士郎の居宅の一部を再現した「尾﨑士郎記念館」MAP __ がある。「蘇峰公園」の北にある「東芝会館」MAP __ は、1941(昭和16)年に元「日本コロムビア」社長の三保幹太郎が建てた私邸だった。このほか第23代内閣総理大臣を務めた清浦奎吾をはじめ、建設会社、製薬会社の社長や「朝日新聞」の重役、音楽家、子爵なども居住するようになり、東京を代表する高級住宅地へ発展していった。



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