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製糸業の繁栄で加速する大宮の発展


「製糸の町」へ 相次ぐ工場の進出 MAP 13

国をあげて殖産興業が進む中、長野県を発祥とする複数の製糸会社が大宮に進出し、本格的な製糸工場が設立された。北関東の養蚕地と生糸を積み出す横浜港との間に位置する大宮は集積地としての利便性が良く、「片倉製糸(現・片倉工業株式会社)」や「大宮館製糸(後の三栄製糸)」、「山丸製糸」などが進出した。「鉄道」と「製糸」の2つの産業が大宮の発展を担う産業の柱となり、その後の大宮の街を大きく発展させていった。写真は1921(大正10)年に撮影された「片倉大宮製糸所」の外観で、氷川参道の「一の鳥居」の近くに大規模な設備を備えていた。

「片倉大宮製糸所」は現在の長野県岡谷市を発祥とする「片倉製糸」によって1901(明治34)年に開設された。当初は大宮町仲町にあったが、1916(大正5)年に現在の「さいたま新都心」駅前に移転し、工員は男女総数800人にまで成長。庭園が描かれた大正初期の写真(絵葉書)からも、当時の繁栄の様子がうかがえる。

78,000坪もの広大な敷地を有した「片倉大宮製糸所」の跡地には、大規模な商業施設が建てられている。「コクーン(まゆ)」という製糸業に関連する名称が、その歴史を伝えている。

山丸製糸所 MAP 14

後に製糸王と言われた越寿三郎が創業した長野県須坂市を拠点とする「山丸製糸」。大宮に進出したのは1907(明治40)年のことで、氷川参道沿いに15,000坪の敷地を有し、「山丸製糸」のなかで最も規模の大きい工場だった。写真は1910(明治43)年に撮影された全景。

「大宮山丸製糸所」の跡地には、C12型式の蒸気機関車が展示され、社名にちなんだ「山丸公園」として親しまれている。

「大宮高等学校」の前身 工場内に設立された教育施設 MAP 15

県内有数の進学校として知られる「埼玉県立大宮高等学校」。片倉工業株式会社が出資、設立した「片倉学園」や「埼玉県大宮女子高等学校」などを前身とし、1951(昭和26)年に開校した。写真は1951(昭和26)年頃の校門付近の様子。

校内には今井五六の銅像が建てられ、当時、片倉松本製糸所にあったハナミズキが移植されている。

「渡辺組大宮製糸所」創業者が誘致した病院 MAP 16

1934(昭和9)年に設立された「日本赤十字社埼玉支部療院(現・さいたま赤十字病院)」は一時、「大宮赤十字病院」と呼ばれていた。1911(明治44)年に「渡辺組大宮製糸所」を創業し、その後、与野町長も務めた渡辺綱治が土地の提供と多額の寄付で病院誘致に貢献した。写真は1934(昭和9)年のもの。

現在は「さいたま赤十字病院」に名称を変え、県内有数の基幹病院として大宮の地域医療に貢献している。2016(平成28)年度に建物の老朽化などの理由から、「さいたま新都心」駅付近へと移転となる予定。


まちづくりに貢献した製糸会社の存在

1917(大正6)年頃の「片倉組大宮製糸所」

1917(大正6)年頃の「片倉組大宮製糸所」

「大宮」駅の開設に伴い長野県から大宮に進出した製糸会社は、発展する大宮の中心的な産業の担い手として位置づけられ、工場主たちはその後の市政運営など、まちづくりの中心的な人物として大きな役割を担っていく。

「片倉大宮製糸所」の工場長を経て同社取締役に就任した今井五六は、1941(昭和16)年に大宮市の初代市長となり、「埼玉県立大宮高等学校」の前身のひとつ「片倉学園」となる学校への出資などを通じて教育振興にも取り組んだ。


「大宮高等学校」校内にある今井五六の銅像。さいたま市名誉市民としてもその功績を称えられている。

「大宮高等学校」校内にある今井五六の銅像。さいたま市名誉市民としてもその功績を称えられている。

また「渡辺組大宮製糸所」を創業した渡辺綱治は、第6・8代与野町長を務め「日本赤十字社埼玉支部療院(現・さいたま赤十字病院)」の誘致などまちづくり運営に大きく貢献した。

製糸工場があった跡地は、大型の商業施設や公園として整備され生まれ変わり、現在もその面影を見ることができる。



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