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「山陽道」の要衝 備前・備中の名所

備前と備中は、「山陽道」の要衝であり、「瀬戸内海」の海上交通においても重要な場所であった。ここでは「北前船」や「御座船」が寄港した「下津井港」、物資の中継地であった天領の町・倉敷、そして天下の奇祭「会陽(えよう)」で知られる古刹「西大寺」を紹介する。


旧暦正月に行われる天下の奇祭 「西大寺」の「会陽」 MAP __

「西大寺」は、751(天平勝宝3)年創建と伝わる古刹で、旧暦の正月に行われる天下の奇祭「会陽(えよう)」でも知られている。これは、住職が投下した「宝木(しんぎ)」を奪い合うもので、奈良時代に実忠上人が創始した「修正会」の大祈祷が起源となり、1510(永正7)年に現在のような裸祭りになったとされる。2016(平成28)年に、国の重要無形民俗文化財に指定された。図は江戸後期に作成された3枚1組の木版画で、『十四日夜陰ニ到リ、数万人之中ヘ牛王寶木を投授く、取戴もの諸災難を除き自冨貴得き事、世に知る所たり』との解説がある。【図は江戸後期】

極寒の中、「宝木」をめぐって繰り広げられる裸祭り。毎年約10,000人が参加し、現在に至るまでその熱気を伝えている。

祭のクライマックスとなる「宝木投下」の際は「本堂」内外の照明が消され、暗闇の中、本堂上部(写真右)にある「御福窓(ごふくまど)」および「脇窓」から百束の「枝宝木(えだしんぎ)」(「串牛玉(くしごおう)」とも呼ばれる)が投下されたのち、住職により「御福窓」から二本の「宝木」が投下される。

「西大寺」の正式名称は「金陵山(きんりょうざん)西大寺」で「高野山真言宗」の別格本山となっている。写真は現在の「西大寺」の伽藍で、右から「本堂」「仁王門」「三重塔」、左が「石門」。手前の青いベンチは「会陽」の際に特別観覧席となる。

西大寺の街は、中世より「西大寺」の門前町、また「吉井川」河口の港町として商業地や物流の拠点として発展した。江戸期以降は干拓による農業も発達しさらなる繁栄を見せ、1896(明治29)年に町制を施行し西大寺町となった。明治期以降は紡績業や製紙業といった工業も発達、1911(明治44)年には岡山方面を結ぶ「西大寺鉄道」も開業となった。江戸後期の1829(文政12)年に西大寺で創業した「天満屋小間物店」は、大正期に岡山市へ進出、のちに百貨店へ発展した。西大寺町は1953(昭和28)年に周辺町村と合併し西大寺市となったのち、1969(昭和44)年に岡山市へ編入合併となり、2009(平成21)年の政令指定都市移行に伴い、岡山市東区の中心地となった。現在「五福通り」(写真)などの旧市街にはレトロな街並みも残り、映画やドラマのロケ地として使用されることも多い。
MAP __(五福通り)

「風待ち・潮待ち」の良港 下津井 MAP __

「下津井港」は「吉備児島の下の津」と呼ばれた良港であり「風待ち・潮待ち」の港として有名だった。江戸時代には「北前船」や参勤交代の「御座船」の寄港地となったほか、四国の丸亀に渡る琴平参詣船「金毘羅船」の発着場としても繁栄した。船頭たちに唄われた『下津井節』は岡山を代表する民謡のひとつ。写真は昭和戦前期の港の様子。【画像は昭和戦前期】

「下津井港」から「鷲羽山(わしゅうざん)」を望む。本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」が開通し、「風待ち・潮待ち」の港にはダイナミックな景観が生まれている。

物資の集散地として繁栄した天領・倉敷 MAP __

倉敷周辺は、中世の頃までは「吉備の穴海」の一部、「阿知の潟」と呼ばれた遠浅の海で、現在「阿智神社」が鎮座する「鶴形山」などが島として点在していた。1584(天正12)年、宇喜多秀家による潮止め工事が行われ、新田が開発された。

1600(慶長5)年に「備中国奉行領」となったのち、1617(元和3)年に「備中松山藩」の立藩によりその領地に。その後、1642(寛永19)年に天領(幕府直轄地)となった。倉敷の陣屋・代官所は、1614(慶長19)年より現在の「倉敷アイビースクエア」の場所に置かれていた。天領となった倉敷は、米をはじめとする物資の集散地として繁栄し、「倉敷川」沿いなどに白壁の土蔵や町家が立ち並んだ。

写真は昭和戦前期の「倉敷川」。この頃は舟運も重要な輸送手段であった。【画像は昭和戦前期】

倉敷は昭和30年代後半から町並み保存運動の機運が高まり、1969(昭和44)年に倉敷市が条例により「倉敷川畔特別美観地区」を指定、1979(昭和54)年には「倉敷市倉敷川畔」が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。


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