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古代「吉備国」の繁栄から「岡山城」築城まで


吉備の中心となる「吉備の中山」

古代「吉備国」は、大和、筑紫、出雲と並ぶ古代日本の四大王国の一つとされる。古墳時代前期、「ヤマト王権(大和朝廷)」の第十代 崇神天皇は「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」を吉備へ派遣し対立する豪族を征伐し平定したとされ、これが「桃太郎伝説」の元になっているともいわれる。「彦五十狭芹彦命」は第七代 孝霊天皇の皇子で、のちの「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」(以下「吉備津彦」)と同一人物とされる。征伐の際は「吉備の中山」に陣を構えたといわれる。「吉備の中山」は吉備の中心となる山で、現在、山上に残る前方後円墳「中山茶臼山古墳」は「吉備津彦」の墓とされている。
MAP __(吉備の中山)

「吉備国」は689(持統天皇3)年発布となる日本最初の律令「飛鳥浄御原令」で「備前国」「備中国」「備後国」に分割され、さらに713(和銅6)年に「備前国」の内陸部が「美作国」として分割された。分国の理由は「吉備国」の強大な勢力を弱体化させるためだったとも考えられている。現在の岡山市内においては、「吉備の中山」を分割する形で、東側が「備前国」、西側が「備中国」となった。

「吉備の中山」の西麓に鎮座する「吉備津神社」は「山陽道」屈指の大社。御祭神は「吉備津彦」で、社伝では五世紀前半頃、第十六代 仁徳天皇の行幸時の創建とされる。分国後は「備中国」の一宮となった。
MAP __【画像は1926(大正15)年】

国宝である「比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり、通称「吉備津造」)」の本殿は、1425(応永32)年に足利義満が再建したもので、現在もその姿を残している。

「吉備の中山」の東麓にある「吉備津彦神社」は「吉備津神社」と同じく「吉備津彦」を御祭神としている。社伝では第三十三代 推古天皇の時代に、「吉備津彦」の住居跡に創建されたとしており、のちに「備前国」の一宮となった。写真は「吉備津彦神社」の本殿で、「岡山藩」初代藩主の池田光政が1668(寛文8)年に造営に着手、二代目藩主の池田綱政が1697(元禄10)年に完成させている。神社の背後には「吉備の中山」が拡がる。
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「備前国」と「備中国」の境界は、「吉備の中山」の南側は「境目川」、北側は「細谷川」であった。写真は「細谷川」に架かる「両国橋」。左が「備前国」、右が「備中国」となる。平安前期の歌集『古今和歌集』には『真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ』として登場する。
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「岡山平野」南部に広がっていた「吉備の穴海」

現在の「岡山平野」の南部は、安土桃山時代まで「吉備の穴海」と呼ばれる内海が広がっていた。吉備の枕詞である「真金(まがね)吹く」は、古代から「中国山地」で「たたら製鉄」が盛んであったことに由来する。「たたら製鉄」では1回の操業に、それぞれ15tほどの砂鉄と木炭が必要であったという。砂鉄は「中国山地」の山を切り崩した土砂から取り出されたが、その割合は1~3%程度といわれ、残った大量の土砂は川から流され、さらに木炭のために森林が大量に伐採されたこともあり、河口付近に土砂が溜まり干潟が形成されることとなった。現在の地名、早島、玉島、児島などは、かつて島であったことの名残といわれる。図は明治後期に著された『児島湾開墾史』内のもので、「岡山平野」の南部が海だった頃の様子が描かれている。図の左には、倉敷が海の中に描かれている。【図は古代の内海の様子(明治後期に推定されたもの)】

宇喜多氏による「岡山城」の築城、「旭川」の付け替え MAP __

戦国大名として頭角を現した宇喜多直家は、「旭川」下流の大洲原にあった「石山城(後の二之丸)」に入城して改築、息子である秀家が、隣接する「岡山」に本丸を築いたのが「岡山城」。城郭配置が西側のみに展開していることが特徴となっている。「旭川」の流路を、天守閣の東を沿うように移し、天然の濠とした。写真は「太平洋戦争」で焼失する前の天守閣。【画像は明治後期】

「旭川」は「吉井川」「高梁(たかはし)川」と並ぶ『岡山三大河川』のひとつ。畔にそびえる「岡山城」は、その姿から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる。春には河川敷の桜が、夏には花火が名城を彩る。天守閣は1966(昭和41)年に再建された。


「桃太郎伝説の地」岡山

「吉備津彦神社」の駐車場に建てられている桃太郎像

「吉備津彦神社」の駐車場に建てられている桃太郎像
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岡山のシンボルともいえる昔話の主人公「桃太郎」。駅前広場には「桃太郎」の銅像が建ち、駅前のメインストリートは「桃太郎大通り」であり、岡山県のマスコット「ももっち」も「桃太郎」をモチーフとしたもの。このように、岡山では至るところで「桃太郎」に出会うことができる。しかし、いわゆる「桃太郎伝説」は全国に伝わっていたため、今日のように「岡山といえば桃太郎」というイメージが定着したのは、意外と新しいようだ。


「温羅伝説」の舞台ともいわれる古代山城「鬼ノ城」

「温羅伝説」の舞台ともいわれる古代山城「鬼ノ城」
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それは、1930(昭和5)年、岡山の彫金家・難波金之助氏が著書『桃太郎の史実』の中で発表した説に始まる。難波氏は「吉備津神社」の御祭神である「吉備津彦」による「温羅(うら)退治」の伝説が、昔話「桃太郎」のモデルと主張したのである。ちなみに「温羅」がいたのは現在の総社市の古代山城「鬼ノ城(きのじょう)」であったとされている。

「桃太郎」による町おこしは、既に香川県高松市や愛知県城東村(現・犬山市)でも始まっていたため、岡山は出遅れた形となった。しかし、岡山が全国有数の桃の産地であったこと、既に江戸後期から「吉備団子」という名物があったことなどから有利に働き、現在のような「桃太郎伝説の地」と言われるまでになった。


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※「岡山藩」の藩主は、初代が小早川秀秋で、二代目以降、池田分家(のちの鳥取池田家)の池田忠継、忠雄、光仲が継いだ。1632(寛永9)年、「鳥取藩」との国替えにより、池田宗家の池田光政が五代目藩主となり、以降、池田宗家が藩主を務めた。池田光政は、池田宗家としての「岡山藩」初代藩主となるが、藩政を確立した名君として、一般に「岡山藩」初代藩主と表記されることから、本ページでもそれに準じている。



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