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城下町岡山の誕生 池田家の藩政へ

城下町岡山の街並みは、宇喜多氏時代に形成され、現在も地域の中心地となっている。岡山藩初代藩主の池田光政は、「閑谷(しずたに)学校」を開き「児島湾」の干拓を更に進めるなど、岡山の基礎を築いた名君の誉れが高い。二代目藩主綱政は「日本三名園」のひとつとして知られる「後楽園」を造園した。


宇喜多氏によって築かれた城下町

宇喜多直家と秀家の時代に、領内の各地から有力な商人を城下に呼び寄せ「三之曲輪(さんのくるわ)」に城下町が形成された。また、以前は城の北側を通っていた「山陽道」は、直家により城のすぐ南側を通るように変更された。池田家に藩政が移ると武家屋敷も形成、「旭川」と「西川」に挟まれた南北に細長い形の城下町となった。上図は池田藩政であった元禄年間の岡山城下町の図で家中屋敷は黄色、町家や寺院は桃色で示されている。【画像は江戸前期】

上図は昭和戦前期の市街地図で、赤枠内が一枚目の画像の範囲。鉄道の敷設などで街が東西方向にも拡大していることがわかる。【画像は1940(昭和15)年】

池田綱政が造園した「日本三名園」のひとつ「後楽園」 MAP __

「日本三名園」のひとつに数えられる「後楽園」は、池田綱政が政務の合間を過ごすために津田永忠に命じて造らせた池泉回遊式の大名庭園で、「旭川」を隔てた「岡山城」の北にある。当時、岡山藩では新田開発を行っていたが、この干拓工事を一時中断して、造園が進められたという。築庭は1687(貞享4)年に始まり1700(元禄13)年に一応の完成を見た。【画像は大正期】

「後楽園」と呼ばれるようになったのは1871(明治4)年のこと。1884(明治17)年に池田家から岡山県に譲られ、一般に公開。現在に至るまで多くの人々の憩いの場となっている。

池田光政の創建、庶民の教育機関「閑谷学校」 MAP __

岡山藩では藩校とともに、庶民のために「閑谷学校」を設けて教育を行っていた。「閑谷学校」は1670(寛文10)年、池田光政が家臣である津田永忠に命じて造らせたもので、城下町から離れた山里にある。完成は30年あまり経った1701(元禄14)年のこと。画像は江戸時代後期に描かれたもので、全国からやってくる学校参観者のために作成された。【画像は1813(文化10)年】

明治期以降、「閑谷精舎」「閑谷黌」「私立閑谷中学校」の時代を経て、1921(大正10)年より「岡山県閑谷中学校」となった。写真は1926(大正15)年の「岡山県閑谷中学校」の様子。左の大きい建物は江戸中期・1701(元禄14)年築の「講堂」で、1953(昭和28)年に国宝に指定されている。【画像は1926(大正15)年】

戦後は「岡山県立和気高等学校」の「閑谷校舎」として使用されたが、1964(昭和39)年に閉鎖。翌1965(昭和40)年より社会教育施設の「岡山県青少年教育センター 閑谷学校」となっている。写真は現在の「旧閑谷学校講堂」。


江戸時代初期の「三名君」のひとり、池田光政

『池田光政元旦試筆』

写真は1678(延宝6)年に書かれた『池田光政元旦試筆』。6行目に「儒道興隆」と書かれている。【画像は1678(延宝6)年】

岡山藩主、池田光政は、徳川光圀(水戸黄門)、保科正之に並ぶ、江戸時代初期の「三名君」として、全国的にも知られている。

光政は、儒教を信奉して陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)を重用、「花畠教場」に活躍の場を与えたが、藩や幕府、周囲と対立した蕃山は後に岡山を去った。現在は市内中心部の屋敷跡に、蕃山町の名が残っている。蕃山に代わって、光政を支えたのが家臣の津田永忠である。1669(寛文9)年、永忠が築いた「百間川」は以後、岡山の街を洪水から守っていくことになる。続いて、1670(寛文10)年からは光政の命で、庶民の教育の場である「閑谷学校」の設立に着手した。

1672(寛文12)年、光政は40年に及ぶ藩政から離れて隠居し、1682(天和2)年、数え年74歳で死去した。儒教を重んじた生前の光政は、派手な祭礼などを禁じ、庶民には倹約を徹底させた。

光政が出した「倹約令」には、「食膳は一汁一菜とする」とあり、この制度の中で少しでも美味しいものを食べたいという願いから、海の幸と山の幸を散らした「岡山名物・ばら寿司」が誕生したともいわれている。


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