現在の「苦楽園」一帯は、長らく未開の地であったが、明治後期に温泉が発見されたことで、道路が開削され「明礬温泉」が開設された。この地に目をつけた大阪の実業家・中村伊三郎氏は、1911(明治44)年に別荘地として本格的な開発に着手、中村家の家宝の瓢箪「苦楽瓢」から「苦楽園」と名付けた。1913(大正2)年、兵庫県のボーリング調査によりラジウム泉が発見されると「ラジウム温泉共同浴場」が開設され、その後、一帯は「六甲ホテル」をはじめ、多くのホテル・旅館が開業するなど、総合温泉リゾート地として発展、大隈重信氏や谷崎潤一郎氏などの要人・文化人も訪れた。写真は大正後期~昭和初期の「ラジウム温泉共同浴場」の入口で、「三笑橋(さんしょうばし)」付近から北東方向を望んでいるものと思われる。
大正から昭和にかけて、西宮周辺にあったリゾート地は、住宅地・別荘地に姿を変えていった。「甲陽園」「甲東園」などは、「甲山」に名称の由来があり、「苦楽園」「昭和園」なども開かれた。また、「阪急」は神戸線・今津線の「西宮北口駅」付近で開発を行い、「阪急西宮球場」などが誕生した。