「西南学院大学」1号館で公開されている「遺跡元寇防塁」。
西南学院大学提供MAP __
鎌倉時代中期、中国を支配していた元(モンゴル)による、1274(文永11)年の日本への侵攻(「文永の役」)では、対馬・壱岐を攻めたのちに「博多湾」から上陸、日本の武士団と激しい戦いとなった。この時、武士団は苦戦を余儀なくされていたが、「元軍」も損害が大きく、内部の対立もあり撤退したと考えられている。この後、鎌倉幕府は「異国警固番役」を強化、「石築地(いしついじ)」を築くなど、「博多湾」沿岸の防備体制を強化した。1281(弘安4)年の二度目の侵攻(「弘安の役」)では、「元軍」は14万人もの大軍で襲来したが、「石築地」の効果もあり、日本の武士団は「博多湾」からの上陸を阻止。「元軍」は台風と考えられる暴風雨に襲われ撤退、この暴風雨は「神風」と呼ばれるようになった。
この二つの戦いは、鎌倉時代以降「蒙古襲来」などと呼ばれてきたが、江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』で初めて「元寇」という言葉が使われている。「石築地」は、少なくとも室町時代まで維持されていたが、江戸時代にはすでに砂に埋まり、また「福岡城」築城のための石材としても使用されるなどで取り壊された。1913(大正2)年、「石築地」は、地元の考古学者、中山平次郎らによる発掘調査が「今津長浜海岸」で行われ、また、中山により「元寇防塁」と名付けられ、以降、一般に定着した。
写真は「西南学院大学」の校舎新築時に発掘された「元寇防塁」の遺構。この発掘により、この付近の「元寇防塁」は石塁と土塁の二列構造になっているという新たな事実が明らかとなった。現在は大学の館内に移築・復元の上、公開されている。