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情報の発信地

江戸時代、「五街道」の起点であった日本橋は、全国から情報・文化が集まり、また発信する地でもあり、書籍、浮世絵など、出版物の制作・印刷・流通の拠点となった。明治期に入っても、街の性格は引き継がれ、書店や出版社、新聞社、印刷関連の企業が多く集まり、情報の発信地として発展した。


錦絵の版元「鶴屋喜右衛門」MAP __

図は江戸末期に長谷川雪旦が描いた『江戸名所図会 錦絵』。「日光・奥州道中」沿いの通油(とおりあぶら)町にあった、地本(じほん)問屋「鶴屋喜右衛門」(家号は「仙鶴堂」)の店先の様子を描いている(地本とは、江戸で出版された大衆本のこと)。「鶴屋喜右衛門」は、もとは京都の書物問屋で、江戸前期の万治年間(1658年~1661年)に江戸へ出店した。版元(出版社)としての役割も担っており、「鶴屋喜右衛門」は、菱川師宣の江戸地誌である『江戸雀』(1677(延宝5)年刊)をはじめ、浄瑠璃本、絵本などを出版した。特に、喜多川歌麿、歌川国貞などによる、多くの錦絵も出版し、1833(天保4)年には歌川広重の『東海道五十三次』も出版(「保永堂」との合版)している。華やかな錦絵は、江戸土産としても人気であった。【図は1834(天保5)年頃】

「鶴屋喜右衛門」(「仙鶴堂」)は明治期まで出版を続けていたが、この場所からは移転していたと思われる。江戸期に「鶴屋喜右衛門」があった場所は旧「日光・奥州道中」沿いの、現在の日本橋大伝馬町14番(写真では右手)付近となる。江戸期の「鶴屋喜右衛門」の向かい(写真では左手付近)には、同じく地本問屋で錦絵の出版を多数行っていた「蔦屋(つたや)重三郎」(家号は「耕書堂」)があった。

江戸を代表する書物問屋「須原屋茂兵衛」 MAP __

初代・須原屋茂兵衛(すはらやもへえ)は紀伊・栖原(すはら)村(現・和歌山県有田郡湯浅町栖原)の出身で、1658(万治元)年に江戸に出て、その後、書物問屋「須原屋茂兵衛」(家号は「千鐘房」)を構え、江戸を代表する書物問屋へ発展、元禄年中(1688年~1704年)に通一丁目に出店した。暖簾分けにより、「須原屋市兵衛」(室町二丁目など)、「須原屋伊八」(浅草茅町)といった書物問屋も開かれた。『武鑑』(大名・旗本の名鑑)や絵図(地図)なども多く手がけ、1834(天保5)年と1836(天保7)年には、本ページでも数点掲載している『江戸名所図会』を「須原屋伊八」とともに刊行した。図は1838(天保9)年に描かれた『東都歳事記 巻之四』の『歳暮交加図』。江戸の年末の様子を描いた図であるが、どの場所を描いたものであるかは不明。図の左上は書物問屋で、『江戸名所図会 二十冊出来』と掲示されていることから、通一丁目の「須原屋茂兵衛」か、浅草茅町の「須原屋伊八」を描いていると考えられる。【図は1838(天保9)年】

「須原屋茂兵衛」は、明治に入ると、『太政官日誌』(現・官報に相当)など、政府の出版物の刊行にも関わったが、次第に衰退し、1904(明治37)年に廃業した。通一丁目にあった「須原屋茂兵衛」の跡地は、現在の日本橋一丁目3番、「コレド日本橋」(写真左端)の「中央通り」を挟んで向かい(写真右端のビル)付近となる。

「雁皮紙榛原」の暖簾つなぐ「榛原」

書物問屋「須原屋茂兵衛」で奉公、支配人を務めた須原屋佐助は、1806(文化3)年に独立し、「日本橋」南詰の通一丁目1番地で和紙などを扱う「榛原(はいばら)」を創業した。特に雁皮植物を原料とする和紙「雁皮紙」や、和紙を加工した団扇、便箋などの小間紙類は江戸中で評判となった。明治初期には世界各地の国際博覧会に出品し和紙を紹介、高い評価を得る一方、西洋紙も扱うようになった。図は明治前期の「日本橋」の南詰で、右に「榛原」の店舗、中央に「電信局」、左端に「日本橋」、中央奥には兜町の「第一国立銀行」が描かれている。「日本橋」にガス灯ができたのが1875(明治8)年、「電信局」が赤レンガ2階建ての庁舎に建替えられたのが1882(明治15)年なので、その間に描かれた図となる。
MAP __【図は1875(明治8)年~1882(明治15)年頃】

明治期に「榛原」の店舗があった場所を含む一帯では、2021(令和3)年より「日本橋一丁目中地区第一種市街地再開発事業」が行われており、2026年竣工予定で地上52階、地下5階、高さ約284mの超高層ビルが建設される。写真中央のクレーン付近が、かつて「榛原」の店舗があった場所となる。クレーンの右の建物は「コレド日本橋」。

1923(大正12)年の「関東大震災」で店舗は被災、しばらく仮店舗で営業が続けられ、1930(昭和5)年に「永代通り」沿い(現・日本橋二丁目7番)に「榛原ビルディング」が竣工となり、翌年、新店舗で営業を開始した。社長・中村直次郎と建築家・矢部金太郎の共同設計による、和洋折衷のアール・デコ建築であった。写真は昭和戦前期の撮影。
MAP __(榛原ビルディング跡地)【画像は昭和戦前期】

「榛原ビルディング」は1990(平成2)年に建替えられたが、一帯の再開発に伴い取り壊され、2015(平成27)年に「東京日本橋タワー」が竣工。その「中央通り」沿いの一画に「榛原 日本橋本店」の新店舗(写真)がオープンした。
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明治・大正期の日本を代表する出版社「大倉書店」MAP __

江戸後期に四谷の地本問屋「萬屋」に生まれた大倉孫兵衛は、江戸末期に独立し「萬屋孫兵衛」を開店。通一丁目に店舗を置き、錦絵、開化絵などの出版も行った。1886(明治19)年、「大倉書店」に改称し、1899(明治32)年に刊行した国語辞典『ことばの泉』(1921(大正10)年に『言泉』と改題)をはじめ、多くの辞典の出版にも取り組み、1905(明治38)年には夏目漱石の初となる単行本「吾輩ハ猫デアル」も出版。明治後期には製版・印刷工場も設置し、明治・大正期の日本を代表する出版社として発展した。大倉孫兵衛は「大倉洋紙店」(現「新生紙パルプ商事」)、「大倉陶園」を設立するなど、実業家としても活躍した。写真は1905(明治38)年頃の撮影で、右が「大倉書店」、左が「大倉洋紙店」。【画像は1905(明治38)年頃】

「大倉書店」は1908(明治41)年に4階建てのビルに建て直した。写真は明治後期~大正前期、「日本橋」北詰からの撮影で、右奥、茶色のビルが「大倉書店」。このビルは「関東大震災」で倒壊、焼失した。右端のビルは食品問屋の「国分商店」。【画像は明治後期~大正前期】

「大倉書店」は「関東大震災」後、南茅場町に仮店舗を構えるも、「東京大空襲」で焼失、戦後は湊町三丁目(現・湊三丁目)に移り復興を目指したが、1952(昭和27)年に火災に遭ったことなどから廃業した。写真中央の茶色いビル付近が、「関東大震災」まであった「大倉書店」のビルの跡地。右端のビルは「国分グループ本社」で、首都高速道路の地下化工事に伴い解体となり、地下化工事完了後に新本社ビルが建設される予定となっている。


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