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伝統を受け継ぐ商工業と街並み

奈良には製墨などの産業が生まれ、伝統が受け継がれている。「三条通り」周辺では産業・商業が発展し、現在は複数の商店街により商業の中心地として栄えている。


伝統産業の製墨を継承する「玄林堂」 MAP __ MAP __(現在の玄林堂)

日本における墨の製造法は610(推古天皇18)年、朝鮮半島の高麗(こま)の僧、曇徴(どんちょう)が伝え、「正倉院」には現存する最古の墨が保存されている。「奈良墨」は室町時代に「興福寺」で製造が始まったとされ、「南都油煙墨」として日本中に広まった。江戸時代、奈良には30~40軒の墨屋が存在した。「玄林堂」は1717(享保2)年、墨屋又四郎により創業している。1987(昭和62)年に取り壊されるまで奈良市高天町に店を構えていた。【画像は昭和戦前期】

写真はかつて「玄林堂」があった場所で、現在は「明治安田生命奈良ビル」となっている。「玄林堂」は奈良市西九条町へ移転している。

西洋技術が取り入れられた「奈良県物産陳列所」 MAP __

1902(明治35)年、殖産興業の目的を兼ねて、「奈良公園」内に「奈良県物産陳列所」を開設し、県内の物産品を陳列、販売するようになった。その後は、「奈良県商品陳列所」「奈良県商工館」と名称を変えた。設計は建築史学者で古社寺保存に尽力した関野貞氏。木造桟瓦葺の和風建築を基調に、西洋の技術を取り入れた建物は、明治中期を代表する近代和風建築として高く評価され、1983(昭和58)年に国の重要文化財に指定された。【画像は大正期】

1951(昭和26)年に国に移管され「奈良国立文化財研究所 春日野庁舎」として使用された。現在は「奈良国立博物館 仏教美術資料研究センター」となっている。

「南都銀行」の前身「六十八銀行」 MAP __

1926(大正15)年、「奈良郵便電信局」跡地に「六十八銀行 奈良支店」が竣工した。設計は建築家の長野宇平治氏で、鉄筋コンクリート造りの地上3階、地下1階のギリシア様式の建物となっている。その後「六十八銀行」「吉野銀行」「八木銀行」「御所銀行」が合併し、1934(昭和9)年に「南都銀行」が誕生。同建物は現在も本店として利用されている。【画像は大正期】

建物は「太平洋戦争」後に北側を増築、ほかに内部などが改装されているが、「三条通り」側からの外観はほぼ竣工当時のまま。1997(平成9)年に国の登録有形文化財となった。

奈良の中心地へと発展した「三条通り」 MAP __

「平城京」の「三条大路」に由来する「三条通り」には、江戸時代に「奈良奉行所」の「高札場」や「奈良布判所」(「奈良晒」の検査所)が置かれたほか、旅籠や土産物店が並んで栄えた。明治時代には橋本町に奈良で最初の郵便局が置かれたほか、「奈良縣里程本標」も設置されるなど、中心地として発展した。写真中央の3階建ての建物は上で紹介した「六十八銀行」。【画像は昭和戦前期】

写真右には「東向商店街」のアーケード、左には「もちいどのセンター街」のアーケードが延びており、商業の中心地となっている。

銀行の集会所だった「奈良倶楽部」はのちに公会堂に MAP __

1889(明治22)年に「六十八銀行」「三十四銀行」の奈良支店が集会所として、「奈良公園」の「四恩院」跡に「奈良倶楽部」を建設した。その後、1900(明治33)年に奈良県が買収し、1903(明治36)年、北側に「奈良県公会堂」を新築。1908(明治41)年に奈良において「陸軍特別大演習」が行われた際には、「奈良倶楽部」が明治天皇の行在所として使用された。写真は「陸軍特別大演習」当時の「奈良倶楽部」の様子。【画像は1908(明治41)年】

昭和初期頃より、旧「奈良倶楽部」の建物は「奈良県公会堂」の「第二号館」(「南二号館」)、北側の建物は「第一号館」(「北一号館」)と呼ばれるようになり、1981(昭和56)年に老朽化のために閉館となった。その後、跡地に新公会堂が建築されることが決まり、1989(平成元)年に「奈良県新公会堂」が開館、、2015(平成27)年、現在の「奈良春日野国際フォーラム 甍~I・RA・KA~」へ改称となっている。


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